その人の信じる対象がそれなら、俺と違うなってこと

見るからに。いやもうかなりうさんくさい論理や対象や信じる対象があって、それを赤の他人が信じているとかそういうのを見た時、どうアクションするかって人によって結構違う。君子危うきに近づかずとかクソみたいな箴言を宣う方もいる。いや、それだってその人が知る範囲では嘘っぽくても、中身はまともとかもある。いや、まともって何だ。論理的というか。多くの人が信じているその理解が間違っているっていう考え方もある。ともかく。すごいむちゃくちゃなことやもう奇跡だろそれってことや或いはもうどうしようもなく理論も理屈も論理も法律もあったもんじゃねぇってぐらいのことを信じている人がいて、その人を変えるとかそういうのってもう並大抵じゃない。疲れる。非常にパワーのいることである。信じる対象=その人なのであって。その人が信じるもんがその人の人格を作り得ているのであって、そのコアを全力で否定するっていう行為はもうその人を壊すことに近い。

2chで「数学を研究する身としては、人文系の研究で人のいうことを良く信じられるな」っていうコメントがあってはっとした。その意見って一理ある。人の言うことを信じられるかどうかというところ。人の言うことになんら意味はない。或いは言葉に何もパワーはない。言葉は何も表現しない。それも考え方の一つなのだろう。人の言ったことは人の考えたところには及ばない。これも一つの考え方だ。嘘ってことがあるわけで、現に日記という中の羅列された文字列を全て作者の真実と理解する人もいるけども、その日記の内容が真実と一致させる必要もなければ、一致させようと努めるのも厳密には難しい。

その人の信じるものがそれでもまぁ良いんじゃね?と広い心で接したいが、距離を置くことができない場合、欲求不満の塊みたいな俺は結果さえ出せばやり方なんて良いんですよって言われたら、全力でその否定する方に走ってしまいそうで怖い。ともあれ、人の信じているもんを壊すのは時間も手間もかかるってことは分かった。