満足が意味を変えて、

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ちょっっwこれはっっwツボだっっw

追い求めていたものが楽に手に入る。ということを何度か経験したことがある人であれば、実は最もおもろかったのはやはり過程なのだなということを気付くと思う。シルヴァスタインの「ぼくを探しに」ではないが、欠けたものが失ったものを取り戻すその過程こそがストーリーであり、楽しいのであって、逆説的ではあるが、満足できないからこそ熱中でき、結果として充実を得られる。欠けているということは、退屈し易い人生を上手く処理する上で非常に重要な要素だと思う。欠けていない人が持つ人生のイメージと欠けている人の持つ人生のイメージはやはり違うだろう。欠けていない人にとって、人生は生き易いのだろうと思うが、欠けている人の濃厚な人生のイメージが俺はやはり好き。ストーリーは過程で、人生はシーン作り。どうせならシーンはドラマティックでありたいねってこれはまぁ趣向でしかない。できない二重飛びを一生懸命にやってできるようになったその喜びと二重飛びなんて楽勝じゃね?とスマートにやる男の違い。スマートさが求められる時代ではあるが、同じ二重飛びでも、前者の二重飛びの意味は大きく、できた瞬間なんてもうロッキーのテーマなわけで、シーンはどこにあるよ?っつったら、前者だろうと。

本物の王室。本物の君主制。そんな環境で、生まれながら特別な神に近い存在の退屈たるや。欠けていること、失ったものを探すことのない人生なんて退屈以外のなにものでもない。いや、何が言いたいって本物の満足とか生きがいって、負やマイナスのものを見つめていくところから始まっていくものだと思う。どうしようもない負やマイナス。自分の皮膚や脳に深く染み込んだものである。求めない。これが昨今流行っているらしいが、求める。求めてこそ、能動的なストーリーが始まるのだと思う。究極の満足を得た人は、世界の視座が変わると同時に、ものの意味も変わるんだろう。

何でこんなことを考えたかって、今日小竹向原の芝居小屋で観たSarah KaneのPhaedra’s Loveの王子。

なかなか良い劇だった。ホモ神父等ところどころ安っぽいシーンがあるが、ホモ神父との対話はなかなか良かった。あれは神なき日本人と西洋人の対話みたいで良かった。あの対話の中での「赦し」。ゲルマニウムの夜でもそういう話があった。「赦し」って何?というか。神を信じている人が罪だと知って、罪なことをするのを赦してねっていうのは偽善じゃねーの?っていう主張とか。あと、最後がナイスね。現代っぽいね。2ch風に叩かれて終わりというか、匿名の大衆になぶり殺しにされるというそのリアリティが秀逸。

「王子」は現代人のメタファーでもあろう。すぐ手に届くところに何でもある便利さ。そして、得た満足。それが退屈を生み、目的を失った王子はただ彷徨うしかなく、彼にとっての人生は時間を潰すということでしかない。

昨今は様々な便利が溢れていて、そういうことを人は発展と言うけども、その発展の代償として、過程をいろいろ失ってしまった。皆がケータイを持てば、家の電話で親が出てから彼女が出るっていうのがなくなった。それは便利なことなんだけど、その過程がストーリーでもあったのかと。世界はもっと欠けていて良い。円になればなるほど、人は人を赦せなくなるのだと思う。

どうでも良いけど、小竹向原って始めて行ったんだけど、駅前が何もなかった。駅前も暗くて、都内とは思えなかった。あとポストパフォーマンストークでくだらない質問というかいじわるな質問をする客が多くて嫌になった。ある客なんて、「私はこの演出があまり好きではなかったのだけど、演出家或いは脚本家として客の意見ってのはどう思うか?」とか聞いてて、それこそ1億いたら、1億の別々の意見があって然るべきで、誰も一枚岩になれとかそんなこと思ってねーし、統一意見が欲しいなら、来るなと思ったが、脚本家はごにょごにょとごまかしていた。いや、ごまかすべきでもない。嫌なら、嫌で終わりだ。地球の全員が全てを誤解しているようなもんだ。「では、どうすれば良いですかね?」もうこれだろ。