Runner’s favorite

テラカワユス。ギザナツカシス。

世の中には、二種類の人間がいる。大人と子供。大人は子供を管理し、養育する義務こそあるが、子供の世界を奪う自由はない。

僕が子供の頃、サンタクロース伝説はどこか真実は暴かれずに守られていたような印象があった。見ていたテレビが今と違うのもあるだろうけど、テレビでもサンタクロースはいないとかそういうのよりも、サンタクロース捜索とかマヌケな番組が多かった気がする。しかし、最近よくCMで特撮ショーの後の汗臭い感じをさっぱりするみたいなところで入浴剤だのファブリーズだの洗剤だのそういうコマーシャルが増えたと思う。あれって生々しい。大人側からすれば、特に何も感じないのだろうけど、子供の立場になってみると夢を壊すことするなぁと思う。その商品の機能性だけだからな。以前の僕は、真実は真実として伝えることが重要だという考え方だったが、子供の夢を破壊するような生々しいCMが続くと、CMなんぞにいや、テレビなんぞに真実が語られるべき価値があるか?という感覚がある。テレビなんぞに真実を語られてメリットはあるのか?と。究極の真実は当人の人生の中にしかないのではないかということ。

子供の夢を大事にするか、子供の夢よりも真実を伝えるかという二択があるとする。しかし、多くの企業がエコを叫び、イメージ戦略を図っているという現状なら(注1)、或いはテレビが真実を語っているとは言い難い現状ならば、真実を語るということはもうテレビには完全に諦めてもらって、子供の夢を守るような姿勢を貫き通してもらいたい。

それか、真実は語られるべき人に語られるという甘えは捨て去った方が良い気がする。真実は自分の感受性にしかない。ただ、目も耳も塞いでは何も見えないし、聞こえない。だから、嘘でも全部見て、聞いた方が良いと思う。ポストモダン的ですが、他人がなければ、自分はないのと同様、自分の意見を探す為に、多くの人の意見を聞くというのが重要。信じられるものがないから、情報を集めるしかない。

でも、それは大人の理論なのだ。大人は情報を収集することができるが、子供は与えられた範囲内の情報しか集めることができない。ああいう生々しいCMをいきなり見せられる子供は可哀想だ。ともあれ、いつの時代も相手の立場になって考えられる人が素敵。

(注1)
生々しさをオブラートで包んだアピールの一例。吉岡秀隆の声の「どうも、猫です」が顕著だと思うけど、00年代における企業の「エコ」アピール。省エネと言っても、運輸会社や多くの会社だって無駄を省く努力やコスト削減をするのは当然の行為のように思える。特別、植林とか有害物質入りの製品を作らない等やっていれば別だし、エコが思想として大事なのは分かるけど、広告費使ってエコを企業イメージ改善やブランディングに活用するその執着が気になる。本物のエコライフ送っているのは、ホームレスだったり、テレ東で特集されるような山奥で自給自足する仙人だったり、半月に1回くらいやる大家族の番組内の裏ワザだったりするのでは?製品はエコを狙っているんじゃなくて、あくまで消費者の需要から作られたものだろう。それをエコという意識が企業側にあるから、需要ではなくエコの意識で作っているんですっていう風に映るよう仕向けられている感じが狡猾に思える。一言でいえば、それは戦略的で(同時にコンプライアンス順守企業であるというsuggestionもあるのだろう)、企業イメージを保ちたいのは分かるけど、「猫です」って言われてもなぁ。「え?猫?」。エコのハードコアな真実を伝えるなら、「仙人です。野草とキノコ食ってます」なんだろう。

この初日の出っていったいどれだけの人が見たんだろう。既に東京で見えるくらいまで上がってきた太陽は犬吠埼や千葉で見てきた人の手あかならぬ目あかがついているような気がして、あまりありがたく思えない。

世の中には批評家と言われる人がいる。批評をしてお金をもらっている人もいれば、無償で批評している人もいる。ともあれ、作品や事象に対して批評をする人は批評家である。
有名な作品には特に多くの批評がある。名画、名曲、名著、所謂マスターピースには語られるべき何かがあり、語られるべくして、受け継がれるべくして存在してきたわけだから、代表的な批評も存在する。
理解するにあたって、批評が必要か?と言われれば、余計な解説が要る作品は良い作品とは思えない。作品それ自体が、全てを語る。それが良い作品だと思う。
最近はそういう思いが特に強くて、良い作品にパンフレットいるか?とか良い作品に解説がいるか?という感覚が強くなってきた。簡単に言えば、批評は感動に勝てないってこと。言い換えれば、感動したもん勝ち。説明なくその作品を見て涙した感動を、批評が超えることはできない。
批評は絶対感動に追いつけないのなら、批評はいるのか?という気持ちになる。その作品をその人の中で解説する方が、他人のディレクションを入れるよりも純粋に思えてくる。批評は遅れてきたランナーで、感動は既にゴールしているのだ。そこで、「ラストの高低差のある坂がランナーの心をくすぐったよね」とか言われても、それは既に通ったところなわけで、そこで「そうそう、ランナーの情熱をかき立てるコースだったよね」と答えてもそれは分かっている人同士の馴れ合いなんだろうな、と。馴れ合いも馴れ合いとして重要なのかも知れないが、逆にそこで走りきったら離れて、一人そのコースへの愛情を心に秘め、恍惚に浸り帰るというのが潔い。批評が感動を汚すというか「いくつかある名コースの中でまぁまぁのコースだよね」とか言われるとイラっとくる。つまり、当人の感動をよそに「まぁまぁ」とか言われるということ。実際、統計的にも構造的にもそれはまぁまぁのコースなんだろう。10段階で8くらいの評価なんだろう。でも、そこでその批評がゴールするのを待って、批評のコメントを待たなければ、本人は本人で良いコースだったな、楽しく走れたと気持ちよく帰れたところを、何故そんなコメントを待っていたんかなと残念な気持ちになる。
個人の感動の素朴さは時に盲目でロマンチックなのに、数値化、類型化、体系化、要素化、モジュール化、「生きるべきか死ぬべきかで有名なハムレット」のように、劇中の単なる台詞がその劇の枕詞になっているようなところから入って行かざるを得ないから、「ああ、ここで言うんだな」というのを経験しなくちゃいけないが、本当の名作ならそんな解説は要らないわけで。
一つの名作を楽しもうとするのに、いろんな手あかがつきすぎていらつくことが多い。
読むべきは原作なんだと思う。
ハイデッガーとか分からなくても読むべきものなんだろうな。
原作で感動したい。