鷹野隆大と会田誠
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カッコつけてるが、良い文章だと思った。読ませる文章である。
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これは濃そうで気になっていたが、行けなかった。
デヴィッド・ロッジ「小説の技巧」を読んだ。技巧の具体例が論じられている本で、意識の流れとか内的独白とか懐かしきかなヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス。ココアを飲むと、スティーブン・ディーダラスとレオポルド・ブルームという名を思い出す。柴田てんてーの訳。彼にはもう誰も勝てなくなっている気がする。
月曜
昼に一度家に帰って、薬局で買い物。仕事終え、映画館に5分遅刻。ウディ・アレンと同じで始まった映画は絶対途中から入らないことにしているタチなので諦める。代わりにアキバでプリンターのインクとかマウスパッドとか雑貨を購入。
火曜
仕事の先輩と激しく飲み。24時帰宅。
水曜
大学の先輩と池袋「アントニオ猪木酒場」へ。1、2、3サラダー。チェーン居酒屋よりやや高い印象。深酒で自身の内面のエス周辺の思いを吐露した。24時半帰宅。
誤解もまた愛ね
子供にとって、孤独とは家庭と学校で誰も自分を理解し(ようと努めている?)てくれる人がいないことだろう。何故なら、子供にとっての居場所とは主に家庭と学校だからである。加えて、地域もあるかも知れない。ただ、家庭と学校で理解されないのは、間違いなく子供にとって孤独感を強めるものである。
置かれた環境で、理解者、或いは理解しようと努めてくれる人がいない、というのは寂しいことである。これまで小生が出会ってきた人の中でも、「誰も理解してくれる人がいない」とか「理解してくれる人は少ない」と呟くような人にも会ってきたが、それでもその人は小生が見る範囲では理解されているように見えたことが多かった。理解の度合いも問題であるが、前提として当人が本音を突きつけていないというか、寧ろディスガイズしているところが様々な誤解を呼んでいるケースもある。そこでその人が言うのは、「結局、理解されないのなら、本音も言う必要はない」ということだ。或いは、「本音を突きつけるのも怖い」といった類いのもの。人が他人に理解してもらいたいという望みは、依存的なところもある。わがままといって良い。俺を愛せと銃口を突きつけるようなものである。
この理解されたい思いというのは、常に人間様を苦しめているように思う。大人になっても、家庭と職場にその環境がシフトするだけで、この理解されたい思いが拭い去られることはない。
小生は小さい頃カギっ子だった。兄妹もいないので、環境と言えば、家庭と学校。その中で理解されている(或いは理解をしようと努めている)感覚は皆無だったから、根性もねじ曲がったし、孤独だった。でも、小学校高学年くらいでその孤独も当然というか、一種突き抜けてくるところがあって、その孤独が普通になっていった。そして、そういう一種の禊は遅かれ早かれ全ての人が通るものだと思っていた。少年犯罪で取りざたされる「孤独」というキーワードは不可解だった。罪を犯した少年より孤独で不幸な境遇の子供はいっぱいいるのに、孤独を凶悪犯罪に結びつけようとする考え方が先ず分からなかった。
至極、まとも(に見える)なことをいうならば、自分の環境の中で一人でも理解者がいるということは、幸せだ。多くの人は、理解者などいない荒涼とした土地で必死に立っている。理解が誤解であっても、理解をしようと努めてくれる人がいるなら、それって愛情よねと、場末のキャバクラのママみたいなことをぬかしつつ、愛のエントロピー増大。世界はそれを愛と呼ぶんだぜ。それって同情とか?ディスガイズしておきながら、「誰も私を理解してくれないの」みたいなことをぬかす受け身な女を発見すると、おもちゃの銃口を突きつけて、「あなたって理解力ないわね」とぶっこいている姿に見えてきてしまう。ともあれ、自分が孤独であるというディスクローズは罠っぽい。物事を単純にとらえられない「理解」が難しい時代に生きているんだと思った。