自虐謙遜〜どちらの病みが深いかについて〜

最近むかつくことはあまりない。しいていえば、大きなところへはあるけどもあまりにも大きくて、実際は些末なことに悩まされている。「自分は病んでいる」とぽろっと言う人がいる。小生が好きなタイプは、この時の「病んでいる」にナルチズムがない人。いわば、本物の声。病んでいると軽々しく言う人はほっといても問題ないだろう。
というか、何一つ病んでいないと信じている人にもあまり会ったことがない。あっちも寄ってこないのだろう。いや、でも、すごくねぇかと。人類数千年で、自分が病んでいるっていう自己申告をする人が自分の周りにこれだけいるってのが、そもそも何も発展していない証拠か、人間本来の性か。感覚の話だろ?って言われれば、それまでだけど、例えば、鎌倉時代にも「俺、病んでますから」っていう自虐キャラがいたのかな。いたとしても、そういう声も時代が黙殺してきたのかも知れない。良く分からないが、いたにせよ、いなかったにせよ、現代にその声があること自体がおかしくねぇかと。
未開のジャングルの部族には、「俺、病んでますから」なんて言うキャラはいないかも知れない。だとすると、環境的な影響でその言葉は発せられているという論理も考えられる。つまり、都市化された社会という状況下でしばしば発せられる記号として。それとも、そういう声は止揚していく過程の中で出る必然?例えば、ニートと名付けられカテゴライズされた集団も何かに対するオブジェクションというか二項対立の一方として、反対側の集団の意味を強調させるという存在的意味を背負っている。いわば、ニートがいて、そこに負のイメージを大衆が与えるから、逆の立場の人々の意味が際立ち、価値を与えられてしまうわけで、そういった名付け、意味を与える作為的な意思が、あやふやだった意味をより際立たせ(善悪といった分かり易い二項に導かれることもある)、かつての意味をより深くさせる。つまり、「病んでいる」というノーティスがその対立の概念を際立たせ、次のステージへ止揚していくための存在としての意味があるのか?ということ。意味意味、良くわからないけども、とにかく、なんだ、「俺、病んでますから」という呟きに対してシンパシーを感じてしまいつつも、「えー、○○さんは病んでないよー、私の方が全然病んでるってー」などと受け答えしてしまう小生の平易なディスガイズもまたこれはあくまで都市化された社会での作法としての返答であると自分もディスガイズするわけで、もう一体何が病みなのか或いは何が力なのか(なんとか力ブーム)何も分からないし、分かりたくもない。

フルボッコ
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2007/10/post_2b2c.html

共感。今日の新聞なんて謝罪会見10分遅刻とか。10分遅刻て、どれだけフルボッコス?ぶってぶって姫とか相撲とかボクシングとか何とか様に対する日々のフルボッコに大衆の礼儀の原理主義、エンターテイメントへの渇望が透けて見えるわけで、どれだけくだらない毎日なん?と逆に問いたい。闇社会の横暴には黙り、テレビの人に過剰反応するこの煽られ易さ。怒りの質とベクトルがなんだか定まらないですなぁ。M姫には、言葉で叩いて頂くことが光栄なことかも知れませんが。。。

先週のレビュー

金曜
英会話の残り分をうけにいってきた。更新どうですか?だとか勧誘された。しつけぇ。そこは大人な対応した。NOVAでは給料の配給遅延で講師が無断欠席していたりするらしいが、システム的に破綻しているブジネスなんだろうな。そもそも、給料払うのが遅れているとか言って確信犯じゃね。遅延している給料を数日でどこから回収してくるんだよ(wっていう。
追記:会社更生法申請らしいです。

土曜
残りの英会話後、銀座三越。鎌倉五郎の栗どらがやってねぇとか。工場が停止しているんだと。小生のブジネスでいう工場のイメージが重厚長大産業のイメージなので、和菓子でいきなり「工場」とか言われるとちょいひく。そこはやっぱり「職人が精魂込めて作っております(最後確認するだけな)が、○○の工程での○○の機械をメンテナンスしてまして、、、」とか言われた方がイメージがまだマシかなぁ、とか。「工場が動いていないんですよ」とか言われたら、でっかい工場でボタン一発で全部できている感じがしてなんか。。。
イノヘッド線ぶらり途中下車の旅、お〜やおや。戻って渋谷。京はやしや激混み、ブレンズ激混み、しょうがなく日本橋でまったり。会社へ寄って、オラオラとエクセル処理。そろそろマクロの勉強とかしないといけないのかなぁ。会社後、再び英会話。最後のレッスン。よくやった。自分を褒めたい。その後、べったら市。There are many stalls in the festival。母と娘でやっている屋台とか父と娘でやっている屋台とかそういう店を選んでしまう。親子でやっている屋台やおばちゃんのやっている屋台の方が信頼があるというか、母子家庭とか或いは頑固オヤジの元で育ったヤンキー娘とかそういうシチュエーションを想像しちゃって、買ってしまうシンパシー。失礼だが、野郎やおっさんだけの屋台はミートホープしてそうというか。実際、何使っているかも分からないけど。七味屋で売ってたおばあちゃんは腰が曲がっていた。おそらく息子とおぼしき人と売っていた。店先でおばあちゃんは七味の入れ物を曲がった腰で丁寧に磨いてた。こういう情景がある一方で、屈強な地元青年団とおぼしきチンピーラーの方々はケータイいじってお好み焼き焼いている。同じもの買うんだったら、どっちよってことなんだけど、俺は共感で選んでしまう。たとえ、あのおばあさんが騙しているとしても別に構わない。

日曜
8時起きで即、五反田。寝起きから激しく気持ち悪い。ここ最近、体がだるいんだよなぁ。ゆっくり休みたい。野暮用を済ませて、一風堂で赤玉全部入り。美味しい。替え玉いった。都営浅草線は空いていたが、周りが皆、白髪のおじいさんで競馬新聞を睨むように熟読しているからびびった。競馬ファンは東銀座で降りた。一度帰宅後、日本橋三越で韓国用のお土産を物色。迷った挙げ句せんべいにした。その後、床屋。3年半くらい通っている。町の床屋の情報力ってすごいよな。床屋はコミュニケーション能力とかキャラクターが発揮されるから、人間力勝負でカッコイイ。コミュニケーションの中にその人の本質を問われる。世知辛い世の中で本当に良い仕事をしているのは床屋だろう。

最近、平均顔に関心がある。平均顔が美人というのはテレビだかで聞いた覚えがあるけど。どの国も女性はどことなく母性的なイメージになるようですな。

http://swfblog.blog46.fc2.com/blog-entry-2262.html
これは興味深い指針。二次元では平均的な存在は脇役に追いやられるのですか。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/6901/soukatu.html
これはおもろい。安倍なつみがリーダー(なの?知らないけど)たる理由ということですか。