アキ・カウリスマキ監督「街のあかり」

ユーロスペース。SHIBUYA Q-AXのビルに引っ越して1st time。今日で最後らしいので観てきた。

ありえないラスト。別に良いんだけど、「そこで落としますか」という呟きが出てもむべなるかな。そこで復讐劇が始まるんだろうが!という呟きもあるだろう。そこで復讐劇が始まったとして、「好きだったあの子が死んじゃって」とかがフランス映画で、「完璧な復讐劇やってやったぜ!悪は滅びる!」がハリウッドだったりするんかな、と。分からない。ただ、ラストが不安定に見えてしまう。不安定というか、やるせなす、、、石井ちゃんです、、、。

見終えて、なんとも言えない微妙な、そして釈然としない気持ちに苛まれる。これが都会に生きる現代人のありのままの姿だと言われてもそうは思わない。これが「ありのまま」ではないのは確かだ。やるせなさが誇張されすぎている。然は然り乍ら、これが否定できる代物かと言われればそれも分からない。観ていて、ギャグで撮っているのかなとか思えるシーンもあった(犬を助けようとして、ぼこられるとかパン4つ出されて、今、肉を焼いてるとかいう彼なりの下流なもてなしとか)。とにかく、分からない。何も言えなくなる映画だ。ユーロスペースの壁にいくつか映画評が載っていたが、どれも納得のいくものではなかった。何かを言おうとすれば、その言葉も全て無駄に終わる気がする。

やるせなさの一因とも言える程、マリア・ヤルヴェルヘンミがブスである。西洋人から見たらあれが女優の許容なのか分からない。そもそも一種のメタファーなのか。でかいネックレスしてて、「深入りしたくない」とか言っててもギャングの言う通りに動く街のブスにコロッと騙されてしまうくらい、そして彼女を信じちゃうくらい彼は純真で孤独だったという暗喩なのか(寧ろ直喩?)。分からない。

マリア・ヘイスカネン演じるソーセージ屋の女、萌える。いや、何なの、と。何故ソーセージなの、と。もうつっこまざるを得ないが。理由なくソーセージ屋というところに萌える。

ヘルシンキの街の印象をとても暗く寂しく孤独に映している。実際あんなロシアの港町みたいなところで自分が生まれたらどうしようという不安に苛まれる。音楽もろくに聴けず、目の前のくだらない日常に時間が奪われ、ただ希望のない日々。ジャンキーになるか自殺するかしかなかっただろう。日本で、誰かに裏切られたことよりも自分が誰かに依存したことがいけなかったのだと、駅でケータイを床に叩き壊してレールに投げ捨てるような日があったとしても、あの寂しい日常に比べれば素晴らしい。

映画を観て本当にやるせない気持ちに苛まれつつ、新宿へ。ドーナツが食べたくなり、クリスピークリームでドーナツを買って帰宅。30分程待った。珈琲とドーナツって良いよね。とかいうと、安西水丸の絵と村上春樹のエッセイを思い出してしまうけども。。。最近CMでやってる南海キャンディーズしずちゃんが「ギザかわゆす」って野太い声で言うアレはギャグだよね、あれ、笑って良いんだよね?と。もう何が面白いのか分からなくなってくる。