他者のドラマを発見する必要

モーニング連載、須賀原洋行の「新釈うああ哲学」、面白いっすよね。「エントロピー」の回が、とても面白かった。

最近、というか、毎日なのだけど、日本橋近辺の喫茶店、つっても何百何千とあるだろうけれど、朝、まぁ、会社員しかいないのだけど、彼らにも、背負っているものとか、人生、あるわけで、ぎゅーぎゅーの満員電車の乗客全てに、ドラマはあるわけで、そのconcernの延長として、歩く道の両隣の家、建物、つまり、何の変哲もない場所や光景そのものに、常に人生やドラマはある。そして、その無数のドラマの現在進行の中、誰かが、誰かとしてこの世界に生きて、何か役割のようなものを背負ったり抱かれたりしつつ、それで世界が回っているというのは何か、それ自体が奇跡的なグルーヴのような気がして、どんな場所であろうと、素晴らしいと思える、何かよく分からないけど、全て肯定!

皆、赤ちゃんから大人になる。あの人も、この人も、昔は赤ちゃんだったのだ。だから、びびらない。皆、赤ちゃん。天才も偉い人も犯罪者もヤクザも。彼らは最初から、天才や偉い人や犯罪者だったわけではなく、某かの原因と結果と偶然でそうなった。人は所属すれば、役割を付けられやすく、多くの人は役割でその人を見るもので。

道行く人は全て、親を持ち、人生を持ち、何かを持ち、偶然、そこにいる、そして、いずれ死ぬ。当然の話だ。当然だが、皆、スポットライトを浴びて、皆、世界の中心である。
でも、くだらん自分の中の狭い価値観が人のドラマを打ち消していて、人にドラマを見いだせない、場所からドラマを発見できない、そういう人がいるのも確かだ。

そういう人は大なり小なり、他者のドラマじゃなくて、自己ドラマ!とばかりに、悲劇の主人公、或いは、ヒーロー、自分の価値をブランディングでもしたいのか、自分の輪郭を際立たせてばかりで、そういう人に限って、ドラマを「出来事」として語り、「感じる」ことをおろそかにしているんじゃないか。

結果、出来事としてその人はドラマティックな体験をしたのかもしれない(冤罪で牢獄で逆転裁判など)が、その人がドラマティックを感じていなかったら、ドラマティックなのだろうか?本当に、ドラマティックな人とは、本当にドラマティックな出来事(さよなら満塁ホームランとか)でも、些細な出来事でも、それをドラマティックとして、感じ取れる人なんじゃないかなぁ。ドラマティックな人って、自分にも他人にも、ドラマを発見できる人じゃないかな。

思いやりというと、べたつく。なんか、うさんくさい。考えを同質化させたいみたいだ。考え方は、同質化させなくて良いのだ。

「ここに、神様が来て、自分の感受性が鋭くなったり鈍くなったりできるつまみをいじくれるとして、いじくる?」と彼女に聞かれて、秋、僕は「いじらない」と答えたと思うけど、君を忘れられない今は、きっと違う答えを言ったろう。あの日と同じ3日続いた長雨が今年も降って、ああ、思い出したよ。

俺にも彼女にもドラマはある。当然だ。毎秒、毎日、毎年、ドラマはある。その当然が悲しいのは、ドラマティックだと思う僕の感覚は消せないから。思い出はいつの日も雨。

モーニング連載、須賀原洋行の「新釈うああ哲学」、面白いっすよね。「エントロピー」の回が、とても面白かった。

最近、というか、毎日なのだけど、日本橋近辺の喫茶店、つっても何百何千とあるだろうけれど、朝、まぁ、会社員しかいないのだけど、彼らにも、背負っているものとか、人生、あるわけで、ぎゅーぎゅーの満員電車の乗客全てに、ドラマはあるわけで、そのconcernの延長として、歩く道の両隣の家、建物、つまり、何の変哲もない場所や光景そのものに、常に人生やドラマはある。そして、その無数のドラマの現在進行の中、誰かが、誰かとしてこの世界に生きて、何か役割のようなものを背負ったり抱かれたりしつつ、それで世界が回っているというのは何か、それ自体が奇跡的なグルーヴのような気がして、どんな場所であろうと、素晴らしいと思える、何かよく分からないけど、全て肯定!

皆、赤ちゃんから大人になる。あの人も、この人も、昔は赤ちゃんだったのだ。だから、びびらない。皆、赤ちゃん。天才も偉い人も犯罪者もヤクザも。彼らは最初から、天才や偉い人や犯罪者だったわけではなく、某かの原因と結果と偶然でそうなった。人は所属すれば、役割を付けられやすく、多くの人は役割でその人を見るもので。

道行く人は全て、親を持ち、人生を持ち、何かを持ち、偶然、そこにいる、そして、いずれ死ぬ。当然の話だ。当然だが、皆、スポットライトを浴びて、皆、世界の中心である。
でも、くだらん自分の中の狭い価値観が人のドラマを打ち消していて、人にドラマを見いだせない、場所からドラマを発見できない、そういう人がいるのも確かだ。

そういう人は大なり小なり、他者のドラマじゃなくて、自己ドラマ!とばかりに、悲劇の主人公、或いは、ヒーロー、自分の価値をブランディングでもしたいのか、自分の輪郭を際立たせてばかりで、そういう人に限って、ドラマを「出来事」として語り、「感じる」ことをおろそかにしているんじゃないか。

結果、出来事としてその人はドラマティックな体験をしたのかもしれない(冤罪で牢獄で逆転裁判など)が、その人がドラマティックを感じていなかったら、ドラマティックなのだろうか?本当に、ドラマティックな人とは、本当にドラマティックな出来事(さよなら満塁ホームランとか)でも、些細な出来事でも、それをドラマティックとして、感じ取れる人なんじゃないかなぁ。ドラマティックな人って、自分にも他人にも、ドラマを発見できる人じゃないかな。

思いやりというと、べたつく。なんか、うさんくさい。考えを同質化させたいみたいだ。考え方は、同質化させなくて良いのだ。

「ここに、神様が来て、自分の感受性が鋭くなったり鈍くなったりできるつまみをいじくれるとして、いじくる?」と彼女に聞かれて、秋、僕は「いじらない」と答えたと思うけど、君を忘れられない今は、きっと違う答えを言ったろう。あの日と同じ3日続いた長雨が今年も降って、ああ、思い出したよ。

俺にも彼女にもドラマはある。当然だ。毎秒、毎日、毎年、ドラマはある。その当然が悲しいのは、ドラマティックだと思う僕の感覚は消せないから。思い出はいつの日も雨。