アリスインワンダーランド

読む度に深いってのが、フォークナーみたいな作品であるなぁと。上海行き飛行機で一回見て、木曜日銀座スバル座でもう一回見た。飛行機の字幕、誤訳多すぎワロタ。

一言で言うと、感動してしまった。とても良かった。ティム・バートンだから。ではなく、主題がアリスの成長で、一見軽いと思わせて、新しい解釈が重層的に配置されていると思ったから。原作の言葉遊びがティム・バートン的な解釈で、躍動的に描かれている。最後、中国に向かうのは実に現代的、アメリカ的。表象文化として、取り上げられるくらいの分かり易さじゃないだろうか。

未熟なアリスが、決断をすることで主体性を得て、大人のアリスに成長する、という話である。最後、アリスが経営者となり、英国から中国までその販路を伸ばしていく。貴族という古い文化をズバズバ切り捨てる姿はまさに自立した女性像。別世界で葛藤するが、現実に戻ってくると主体性を獲得しているという構造だけだったら、本当に軽い、ハリウッドでよく見るお気楽な成長物語ですな、と一蹴して終わりなのだけど、描いている一つ一つは原作に対応し、しかも味がある。

青虫は、who are you?と聞き、アリスかと問われると、not hardlyと答えるやり取り(すごく言いそう)、ハッターはMの言葉を考えており、マーダー、マリスと女王に説明し(原作のおかしさが残っている)、決断をためらった場所で決断をしなければいけないという見せ方も良かった。原作を底に敷きつつもそこから展開している部分が、期待を裏切っていないという点が素晴らしい。

アンダーランドでの出来事というのは、基本的に巻物によって決定付けられている。例え、本人が自分の行為ではないと思っても、そのようになってしまう運命である。それは、自分が望んでもいない貴族と結婚を、「そういう運命になっている」とする立場の人々の理屈で、その意味でアンダーランドは現実と変わらない。Jabberwockyがヴォーパルの剣との戦いをデジャブと見て、自分が負けるのも既に分かっているかのような発言をする。つまり、本質的な戦いはJabberwocky対ヴォーパルの剣であり、アリスはそこに居合わせただけの人物であり、アリスがJabberwockyを倒しているという理解は間違っているのかも知れない。アリスはJabberwockyを倒したことで主体的になったのではなく、運命付けられていることへの恐怖を感じて主体的になったのかも知れない。或いは、主体的ということではなく、「不可能なことを信じる勇気を持つことができるようになったアリス」という方が良いのかも知れない。ただ、Jabberwockyを倒すことは運命付けられていたわけで、それ自体が不可能とされていたことでもないのだが。

「能動的なアリス」を描くことが良いのかどうなのかは分からない。言い換えると、「アリスが戦っちゃダメだろ。原作的に考えて」。「あくまで、アリスは迷い込むわけで、善か悪かって二項対立の前に客観的にいるのがアリスなのに、何戦ってるの」という考え方。そういう意見もあるだろう。ただ、原作のアリスが書かれた時代の女王、チョッキを着たうさぎ、帽子屋の表象をそのまま21世紀に持ってきて、言葉遊びを始めるというのは非常に難しい。「女王」というイメージと意味が全然違ってしまっている。原作を壊さないレベルで、現代的なフレームを入れる必要があった中で、よくここまで上手く落とし込んだな、という意味で、良い映画だった。