ディオゲネス

ヘーゲルの「法の哲学」で、ディオゲネスという哲学者の解説があり、文化の全てを無駄と言い捨て樽の中に住んでいたと言う逸話があり、「ああ、お笑いマンガ道場富永一朗が描く鈴木義司か」と思ってスルーしてしまったが、文化の全てを無駄と言い捨てるってのが気になって、wikipediaで確認したらなかなか面白いことが書いてあった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%8D%E3%82%B9_(%E7%8A%AC%E5%84%92%E5%AD%A6%E6%B4%BE)

過去の文芸作品なんか読んで思うのは、ギリシャ的な考え方は野蛮なところもあるが、結構今に近いと言うか時代と重ね合わせるとかなり洗練されていると思う。逆にローマ、中世、近世ぐらいの考え方は逆に宗教の見方によって考え方が退行しているぐらいの感覚を感じる。神ありきの文化で発展もしたろうが、神ありきというフレームワークで取りこぼされた声や思想もあったろう。言いたいのはそういうことじゃなくて、ディオゲネスのような発現をするおっさんは現代にもいるだろう。例えばプラトンの「国家」における理想論、これはナチス現代日本でも同様のことを主張する人間がいてもおかしくない。例えプラトンの「国家」を読んでいなくても、「国を変えなくちゃいけない。二十歳でテストを実施して優秀な人が哲人となり政治をするのが理想」って考え方を飲み屋で披露されるなんてことがあるわけで。

文芸作品を読んで思うのは、過去何千年も人間はそこまで変わっていないということである。変わっていないというと、語弊があるけども、考え方に限界があるというか、いつの時代も「そういうことを言う人」はいる。文化ファックだと。こういうことを言う人はいつの時代もいる。アプローチと演出の仕方が違うだけで核となる主張は同じだ。今、自分が若い頃と違ってそういうメッセージにそのままの純粋な気持ちで納得したりファンになったりしないのは、「最終的には文化しか残らない」と思うから。当時のディオゲネスがどんなに文化糞だと言ってもその主張自体がこうやって数千年経った極東の島国で伝聞ながらも伝えられ、「ディオゲネスとかマジ富永一朗のドカン」っていわれている事自体が文化の一部になっているわけで。文化しか残らない。或いは、文化でしか残らない。エイフェックス・ツインFRFで犬小屋の中で演奏したというような逸話が、後に同じことをやる人に対して、「◯◯って、マジエイフェックス・ツインの犬小屋」と言われるようになるのか。