Go! teamのTitanic Vandalismが太陽にほえろ!みたいな件について

哲学の本や昔の物語なんかを読むと、昔の人は実に我慢強かったなぁと思う。特に宗教の問題。キリスト教では最後の審判、仏教では輪廻転生、「今、現実の世界はこんな苦しいけども、神様は見ているよ」であり、「今は苦しくても、来世は良いよ」である。神、王や権力者という絶対的存在に恐れひれ伏しつつ田畑を耕す。ハレ(祭り)とケ(日常)もはっきりと分かれていた。
それに比べ、現代は、金払えばこの瞬間もハレになるというか、常にハレというか、ハレとケの区別のはっきりしないなんだか良く分からない時代に思える。不条理な出来事が起こった時(法律とて慰めにしかならない悲劇的な事件だとする)、人は神とか日頃の行いとかそういったものを出してきたが、信仰心の薄い現代での出来事はそういった理由の説得力自体が失われるわけだから、その出来事を本人が背負ってしまう(自由の刑に処されているわけで)。辛いだろう。理由ない不幸の理由に囚われてしまう。幼い子供を失った両親が宗教に救いを求めることを誰が責められるだろうか。不幸を絶対的存在のせいにする時代は終わって、個々人がその責任を負わなければいけない世界は息苦しい。
運命とか語る時代は終わったんじゃね?と思うんだよな。恋愛でもすれば、その偶然も運命と呼べるのかも知れないでしょうけど。

ユージン・オニールの「夜への長い旅路」の台詞。

メアリー「でも、これも人生のせいだ、この子にはどうにもならない。私たち誰にだってどうにもなりゃしないのよ、人生の手から身を守るなんて。気が付いた時にはもうやられてしまっている。一度やられてしまうとあとはただ、次から次へと言いなり放題にさせられてしまう。とどのつまり、自分でこういう人間になりたいなという理想があっても、その理想と自分の間にありとあらゆるものが立ちはだかって邪魔をする。こうして永久に本当の自分というものを失ってしまうのよ」

このお母さんは出産の時に医者にモルヒネを薦められ、結果として麻薬中毒になってしまったという過去があるから一層可哀想なんだけど、この台詞って強烈よね。。。

巷では「求めない」ってのがブームと聞く。スピリチュアルの次によりハードコアな思想が出てきているようでアレですね。もう何がなんだか。

アートを浪費する。と言えば、良いだろうか。分からない。適切な言葉が見当たらない。アートを消費する。もっと的確な動詞があっても良い。一言の。例えば、ここにいくつかCDがある。全員違うアーティスト。内容は、違うように見えてそのどれもカテゴライズされてしまう。夢や愛やmiss you、いくつ出てくるだろうか。統計を取ってみるのも一興だ。多くの曲を聴いたり、多くの劇を見たり、或いは多くの小説を読んだとしよう。新しいのが出るたびに熱狂するけども、その前に経験した熱狂もあって、now and beforeどこか似ている。「言い方を変えた、表現を変えた何かに夢中になっているだけだ、俺は」と冷める時がある。結局、人の感情というのも有限である。怒りや悲しみも有限であろう。故、熱狂も有限であって、時間が全てを変えてしまう。文化の浪費?分からないが、これがアートだと。すごいと。驚愕せしめるもんだと。いうのが出てきてブラボーとなっても、それも何?一時の熱狂であって、そのもの自体がオリジナルとかじゃなくて、以前の定形文のcopy, sampling, mixingと少しばかりのエラーではないかと、異様に冷めることがある。その時、俺は一体何をやっているんだと嫌になる。同じようなアートを、再び同じような価格で買って、同じような充足を得て、それで満足かと?要は、消費。全てが消耗品であるとしても、この消費の連続、はなはだ、くだらないことではないかと。心というトイレが汚くなりました。よく使うから。音楽、本、映画を使って、トイレをゴシゴシ掃除。新製品のこのラッパーの音は汚れがよく落ちるんですよ。この作家のものは汚れがつきにくいんですよ。はい、綺麗になりました。気持ちいいねー。その連続の虚しさ。分かる?

途中のインストが。或いはタランティーノのデスプルーフイングラインドハウスの最後の曲っぽい。何故か、昭和の刑事ドラマ。なんだろうこれ。ただ、うけるというか。耳障りが良いんですよね。懐かしさみたいなものも感じるけど、一方で新しい気もする。だからなんだと言われてもアレですが。