格差社会は恋愛をおもろくさせるのでは?

有史以来、人間は文明を築いて何千年経っているのか分からないが、とにかく、何千年や何万年も経っているというのに、生き易さの発展っていうのは科学の発展に比べてなんて緩やかなのだろうか。実際、社会は発展しているんだろう。未開の世界に比べれば、若干生き易い社会になっているのだろう。理由なく(原因も理解できず)バタバタ死なないし、病気と災害はある程度なら予防できるし、テレビゲーム的にすぐ死ぬという悲劇が少なくなった分、ツールの影響で徐々に生き易い世界になってきているんだと思う。いろんなものが簡単に手に入るしね。だから、それを発展と呼ぶことも反論しない。社会は徐々に発展しているんです、ということ。でもそれは、生き易い社会になっているわけじゃなくて、科学で便利な社会になっただけだ。

現状を「ザ・発展」と「ザ・成長」であり「ザ・プログレッシブ」と捉えるならば、なんでこんな世界は生きにくいのか。いや、そんなこと感じてるのお前だけだと言われたらそれまでだが。もし、本当に世界が発展していて、最大多数の最大幸福に向かっている(或いは達成途中にあって)というのなら、何故、多くの人が生き辛いと感じるのか。

科学、道具、技術はどんどん発展しているのに、「社会で生きる」ということの生き辛さは全然改善されていないように思う。いや、未開の世界で生きる方がもっとつれーぞと言われそうだが、科学がこれだけ進歩して、数千、数万年も経っているのに、それでもなお人間の生き辛さがシステム的に解消されないのかが疑問だ。だって、数千、数万年経っててもなお、人間が生き辛いとか感じるっておかしくねーかと。結局、人間は社会の中で生きるしかないが、生き辛さは科学が発展しても解決できない命題なら、「社会は文明により発展している」と言えるのか?社会の中の人間の生き易さが改善されていない。

人生は修行だと。時々宗教家みたいな人が言う。この世を生きるのは辛いことだらけ。生きるとは修行なんだと。政治家はこう言う。社会を変えなければいけない。いつの世も「政」でそんなことを言ってきた。実際に変わったんだろう。古代、中世から近代となり現代へ。でも、それは社会のシステムが変わっただけで、結局当の時代で生きる人の生き辛さの命題を革新的に改善させた人はいなかったんじゃないか。生き易かったのは皇帝や王や一部の諸候だろう。どの時代であっても多くの人が生き辛かった筈だ。「改革されたのに」である。改革とはいつも「より良い生き易い世界」という虚妄を大衆に信じ込ませるに長けた人の世迷い言。

そこで俺はひねくれているからこう思う。宗教家は本当に世界を「生き易い」世界にさせたいのか?結局、全てが苦行であり、修行なら、苦しいのカモン!だろ。Mで、苦しみこそ修行なんだろうと。だったら、生き辛い世界じゃないとまずいじゃないですかと。社会を発展させるとか生き易くさせる必要なんかない。寧ろ、どんどん混沌を散りばめて生き辛い世界があった方が修行として、この世に生きる価値があるんだろう。ただ、宗教家に説得力があるのは、世界が絶えず生き辛い世界だったということだ。

思うに、人と人のコミュニケーションがデフォルトで生き辛い世界の構築を招くフラグなんじゃないか。だからといって、人とコミュニケーションをとらないわけにはいかないが、今後も生き辛さの命題が残り続ける限り、改革と呼ばれる何かに人は惑わされるんだろう。

それとは別のとらえかたで人間が生き易い世界を望んでいないっていう見方もある。生き易かったらおもろくねーじゃん、という。叩かれないよりは叩かれた痛みを記憶に残したいという人。モノより思い出派。つまり、故意に世界に負荷と混乱の要素をちりばめている。何故なら、生き辛い方が実は幸福だから。これはパラドックスにも思えるけども。

生き易い世界と生き辛い世界、どっちが良いですか?と言われて、そこで選べるようなことはなく、デフォルトで世界は容赦なく生き辛いけども、ロングスパンで見れば、生き易い生活よりも行き辛い生活の行き詰まりの方が喜怒哀楽があって幸福なような気がしないでもない。

それどこのエロゲっつーか、全米が泣いた。この一言の後、オーケストラの音。森本レオのナレーション「家出少女の物語」。

http://blog.livedoor.jp/news2chplus/archives/51024531.html
http://anond.hatelabo.jp/20071015091619

日本始まったか、そうか。まぁ、一大スペクタクルだな。スピルバーグがメガホンもってその脚本いただき!ってなるだろ。

TBSの初音ミクの紹介シーンは別に大したことなかった。あのくらいの侮蔑なら別に良い希ガス

「日本始まったな」と言えば、このエントリー
http://asuka44444.blog49.fc2.com/blog-entry-35.html
「愛子ちゃんってちょっと立場なくない?」
しかも、普通に心配顔とかしてたら、マジ勝てねー。「立場なくない?」とか言われたら、総武線の女子高生的には「つーか、あーしさー」と流されるのかな。いや、そこは「立場ないよねー」とおまんが考えてどうする的な会話をして欲しい。

最近、常に思いつき。障害が増えて立場と考え方が多様化するだろうなぁ、と。社会が多様性を認められる受容を持っている前提は勿論だけど、その中で標準化されていくより、差異が拡大する方が、恋愛はロマンティックになるんじゃないだろうか。いわば奴隷と貴族の恋。美女と野獣。上流カップルと下流カップルという風に相手も自分と同じような人と一緒になる傾向がある一方で、上流と下流の恋愛もあるだろうから、多分、そこがおもろいんじゃないかと思った。一言で言えば、玉の輿ですが。

土曜
チャリで銀座。イトシアが混んでた。入りませんでしたが。カレルチャペック紅茶店が気になるなぁ。チャペックつったら、ロボット。ロボット店員期待age。
http://www.karelcapek.co.jp/

ジャポネで昼食。ジャリコ、テラウマス。客層が相変わらず謎。安いってのもあるからなぁ。商品券なんぞを買う。その後、ビックカメラメモリースティックを確認。やはり、価格.comで買います。。。帰宅後、ワンセグの設定をする。部屋だと映りが悪いっぽい。キー!テレビなんか見ないだろうと思っていたけど、確かにケータイにテレビついてたら暇は潰せるよなぁ。

日曜
PCつけっぱで気が付けば寝てた。昼、チャリで銀座。銀座のおばんざいの店でランチバイキング。今日はこの1食で済ました。その後、日本橋ブラブーラ。日本橋西川王貞治の広告がふくよかで、今と全然違うから最初誰か分からなかった。

「espressamente illy 日本橋
http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13033590/
ただでネットできるので、ポイント高い。折角、青山フラワーマーケットが入ってるのだから、入り口を大きくして外見えるようにするともっと良いと思う。
こういうネットできる店って、履歴を消さない人が多い。ネットリテラシーがないよなぁ。トイレ入って、流さないようなもんだ。プンプン!

この界隈のチェーン系カフェ率は尋常じゃないが(日本橋西川の前にエクセルシオールカフェ高島屋の隣にilly、向かいにスタバ、スタバの横のコムサJTBのすぐ先にタリーズ丸善の横を東京駅に進むとドトール。チェーンじゃない喫茶店を入れたらもっと多いんだろうが)、三浦展てんてーの独自の調査では「できる美女は今、日本橋にいる」ということですが、その調査を掘り下げるならば、朝の日本橋のカフェをできる美女が使う、ということなのだろうか。とも考えたが、違うな。平日朝はおっさんしか見ねぇ希ガス。平日はおっさんだが、日曜の客の多くは高島屋三越丸善に買い物にきたカプールや親子連れである。おばはんは、動くと息切れするから、バーゲンなんかで買い物終えたら喫茶店に入って、今日は何買ったとニンマリして、相手がいれば報告したりしているのかな。そういう光景って平和で、美しい気がする。例え法律が様々な矛盾を孕んでいたとしても(憲法9条が云々とか)、そういう光景が存在することが平和であり、日常の美しい部分なんじゃないかと思った。現代に歌川広重がいたら、東海道五十三次日本橋はこの「喫茶店でのバーゲン後のおばはん」を描いて欲しい。或いは、「朝のリーマン」。コーヒー飲んで新聞読んでるリーマンが力強く描かれている。でも、それはノーマン・ロックウェルに描いて欲しい。