創造とワクワクの時代格差

ともあれDJの時代である。編集、remix、compilationの時代である。作るのに飽きたんじゃない。受け手のハードウェアが簡単に変化できないだけ。「僕らがうっまれてくるずっとずっと前からもう、アポロ11号は月に行ったっていうのに」である。そのどっちらけ感。クッパ倒した後、また1−1から始まるスーパーマリオクッパは倒さないで欲しかったと未来の人間が過去の人間を羨む。

出尽くした感の寒さ。今後はコピペで卒論も適当かましてりゃ良いや的処世術の諦観的うんこ。そもそも、創造なんてなかったっしょ?とか言われても、どう答えて良いか分からない。一体、何が創造なのかも分からん。創造とはselecting and mixingっしょ?と言われても、答えられん、反論できん。創造と編集の境目からして分からなくなっているのである。生命の個体だけが唯一の創造な気もする。創造とは受精かも知れない。

生まれた時既に創造の時代は終わってて、編集の時代に入っていたのだと思うと薄ら寒い。だから、創造というものが存在しているように自らを欺いて信じ込ませているのだ。100年後、どういった文化になるか?と先生に尋ねられて、なんか変わる気がしねぇ。結局、remixの文化でしかない気がするのだ。人間の感性の受容度がそこまで変化しない気もするし、変化するのが良いこととも思わない。

例えば、古典、例えば、canonと呼ばれるものがいくつかある。それらを否定することから始まるのではなく、それらを取り込んで編集しているところから新しいものが始まっていっていくのだ。おそらく今後も。

分かり易い例がシェイクスピアとかビートルズとか。技術がカバーしているから、新しく見えるだけで、本質はシェイクスピアだったり、ビートルズなのかも知れない。結局彼らのやり方の模倣だったり、組み合わせの妙だったり、今あるものはいつかあった先人のmixingされたもんである、という薄ら寒い感覚を拭うために、これはすごいと思い込まざるを得ないだとすると、痛々しい。いや、感動はする。でも、要は組み合わせのやり方がすげー上手かったねって感動なんだろうかと疑念を持ってしまう。

有史以来、人類は様々な文明を作り上げてきたが、あと数千年経って、音楽、アート、スポーツの種類が膨大に増える気もしないし、今まで構築してきた人類の文化のあるジャンルが加速的に多様性を持つ気がしない。野球がなくなって、野球じゃないスポーツが生まれたとしても、それは野球っぽい何かなのではないか。人間は社会を作ったが、社会が人間に与える影響も大きい。文化とは人間の欲望と表現の発露だ。野球はなくなっても、野球という概念を求める社会が存在すれば、野球っぽい何かは生まれるだろう。

つまり、最も創造的な時代は過去なのだ。文明が発達すればするほど、無からの創造は難しい。もし、「大方出尽くしたね」ってのが共通理解なら、今後はツールが増えるだけ、料理のメニューが増えるだけだ。バナナとしての素地のおいしさが、バナナクレープになり、バナナチョコホイップクレープになる。どの段階の料理が好きかは、各人の好みに委ねられる。バナナのみで美味しいという人のグループとバナナチョコホイップクレープがおいしい人というグループで分かれる。バナナチョコホイップクレープが好きな人に新たにツナトマトクレープっていう食感を出したら、新しいと思われるだろうけど、ツナやトマトやクレープっていうその要素は既に出ていたわけで、オリジナルはツナであり、トマトであり、クレープなだけなんだけど、そこを新しいと思い込ませるのがブランディングだろう。バナナチョコホイップクレープが進んでいるわけでもなく、バナナチョコホイップクレープが好きな人が多ければ、その味が好きな人が多い時代なんだってことだろう。ともあれ、創造が退屈になった未来の人は創造力が発揮できた時代を羨むのだろう。