Otis Redding/the very best of otis redding

あんまよくねぇ。satisfactionとかストーンズの方がカッコイイし。

「こうなったらこうなると、結果、最悪な結果がもたらされると、そのような予測ができていたにも関わらず、あなたは助けなかったのですね」。未必の故意?よーわからんが。それを教育というシートを通せばまた違って見える。

もしかしたら、それでも谷底に落とすのが偉いのかもしれない。結果として、その人のためになるのであれば。つまり、身に付けば。それが教育方針だと言われれば、それまでだ。或いは教育者が、「言葉は教育として無力だということを教師をやってきて、悟ったから体罰をするまでです」と言われて、それも一種の教育哲学なんでしょうなぁと、鼻ほじりながら返答するように。一方で言葉で治す医者がいるとか、D12の「words are weapons」、或いは朝日新聞のクソCM風に「それでも私たちは言葉を信じている」などとかぬかしだすのか。人によって、「言葉」の価値は違うのだろうが、「何を言っても無駄、説得に応じない、やめられない、とまらない」であれば、フィジカルな解決を求めるというのは、野蛮と思われつつも結構ある。別にこれは外交問題の話ではなく。

教える人が何をすれば良いとか教わる人が何をすれば良いとかではなくて、どんな体験を与えるかではなかろうかと思う。言葉で人が変わればそれは便利だが、残念ながら、「短い言葉」で、人を変えることは難しいのだと思う。一番良いのは体験だろう。でも体験というのは、貴重なものであるから、その「体験」を万人が経験できるわけではない。「体験」に代わるものとは、「物語」であるまいか。いわば読書。或いは映画鑑賞、観劇。とりあえず、「話」を読むことで疑似体験はできる。殺人やら刑務所やら或いは「向上心のない人間は馬鹿だ」と言って自殺したKのことを想像したりできる。

話がずれまくりだが、善悪、良い悪いひっくるめて、短い時間でめためた経験できるということは、誇れることだなと最近になって思う。だから、「最悪」ですら良い。物語には、寧ろ、必須だ。

あいのり
ひさよんが、やべーよ。どうでもいいけど。