不安定な事柄ほど面白い件について

以下、「わにとがげぎす」より。

富岡『だ・・・・だけどね・・・さすがにこんな男でも最近よーやく“これじゃダメだな”“これじゃその辺の石コロ大して変わらない生涯だな!”と思うようになって・・・・変わろうと決意したんです!孤独を罪ととらえ・・・・今までの不誠実を一気に清算してやろうと!いずれ俺は革命を起こす必要がある!いずれはこのぬるま湯から出なくてはならない!(中略)でも俺は出ない・・・・なぜかわかりますか?(中略)わかってしまったんです・・・このぬるま湯は・・・「もしかしたらかけがえのない最高のものなんじゃない?」と・・・』

女の子『じゃあ・・・・私が引っ張り出してあげましょうか?(中略)その最高のぬるま湯ははっきり言って錯覚です』

台詞回しが天才じゃ。「ウィリー・ローマン」前の30代孤独男の叫び

恋であれ、人生であれ。ぴくりとも揺れ動かないものは、石ころである。

シガテラの最後、主人公は大人になっている。一気に時間が進んで、主人公は大学を卒業し、社会人になっている。10代とは別の恋人と同棲しており、明日同棲相手の両親に会いに行くという。そこで、10代を振り返る。あの不安定だった彼が随分立派にできたじゃないかと。しかし、自分はつまらない人間になった。そうだ、ドゥカティを買おう、と。

こういう考え方が「つまらない」人の暗示をしている気もするが(例えば、勝ち組エリートリーマンが、昔はむちゃしたもんだぜと高級バイクや高級車のフラッグシップモデルを買うというような論理展開)、考えさせられた。

言われれば、そう。安定したものはつまらない。不安定な事柄ほど面白い。省みれば、自分含めて皆が、思春期の不安定からどんどん安定方向へ向かっている。それが社会に出るということだと、言われればそうなんだろう。しかし、本物の熱狂や興奮やスリルは不安定の中にしかない気がする。

まだ輪郭が閉じてないそれはうだうだぐだぐだしながら、蠢いている。輪郭が塞がって、伸びたり、混ざったりする可能性の断たれた完成品になったら、もう自己完結しかないんじゃないかと不安になることがある。どっかのおじさんみたいに。不安定最高とかそんな単純なことじゃなくて。

一方で、不安定な事柄ほど面白く見えるというのは、自らが安定しているという無意識の自覚からかも知れない。ないものねだり。浮気性。自らが不安定でいる分には安定したものを求め、自らが安定しているから不安定なものを求めているだけかも知れない。主観的に。日々に冒険がないから、冒険を求め、性犯罪は犯さず、AV観て補完するといった。人間は我が侭である。

うだうだすんのを忘れた時、そんなの石ころ。つまらない。揺れ動いてこそ。故の「小僧どもソープに行け!」ですか、御箴言賜りまして、ありがとうございます。振れ幅メートル上げつつ。

連載中の「わにとかげぎす」にも期待。