基礎英語

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しつこいようですが、ちょいワルから、ちょいロクデナシにパワーアップしたこの時代の流れから察すれば、超ロクデナシの漏れの時代もまもなくということです。

大学で習った先生が復活してた。

日曜
に観たラドママ公演の「欲望という名の電車」が記憶から離ずにいる。

いろんなものがなくなっても、「生きるしかない」んすね!!というメッセージが印象に残る。この演劇の素晴らしいところは、やはり「入り方」。ブランチが欲望という名の電車に乗って、極楽というところで降りる、しかしそこにあったのは彼女にとって極楽とは言い難いものであった。落語や童話等でこんな入り方がありそうだが、それでも言わせて欲しい。グレート、と。

また、こういう話は現代でもよくあるんじゃないかと思う。例えば、主婦であった姉(以前はお嬢様であった)が離婚して、親の身寄りのない中で、とりあえず妹夫婦のところにやっかいになる。しかし、攻撃的な妹の夫が、その姉の過去を暴いたあげく、いびり、ついには追い出す。もっと発展し、ラスト、妹の夫に冒され、ついには精神病院に入ることになった姉が、実は既に身籠っていたとかなったら、最強に身につまされたと思う。

あの終わり方もナイスだと思う。重要なのは全てを「語る」ことではなく、「投げかけ」だと思うから。

重要なのは「投げかけ」だと思うから。これは本当にそう思う。例えば、「社会や組織なんかの○○が悪い、不便だ、クソだ、残酷だ、くだらない」という問題に直面した時、ある人は自ら政治家になって、変えようとする。ある人は財力を得て、変えようとする。また別の人は自ら権力を行使して変えようとする。そのような人は、対象物に直接的な方法論で立ち向かいたいのだ。

しかし、問題を変えようとするにあたって、皆が直接的なアプローチで立ち向かう必要はない。皆が政治家や、金持ちや、ボスにならなければいけないのではない。比較的教育された国民のいる社会においては、「投げかける」ことも社会を変えるアプローチの一つである。テレビCMや広告やブログがメディアの力として機能していく中、直接的なアプローチよりも「投げかけ」を行うことの方が重要に思える。問題に対しては、「正解」が重要だが、「共感」を大切にする人がもてるのは確かで、どちらも同じくらいに大事だが、時に「共感」が「ルール」を覆すこともある。この世は、人間が営んでいるわけだから。

ともあれ、テネシー・ウィリアムスは素晴らしい。追憶の劇「ガラスの動物園」にしろ、この作者は劇作家であり、詩人だ。ものすごい「投げかけ」た終わり方をする。無責任なのではなく。渡る世間は鬼ばかりは、どっかの家族が「軽くやばい」感じで回っているが、オニールやウィリアムス等の「家族の誰かがかなりやばい」という設定の方が物語の強度が違うな、と。

また、これは自らの確信に近いのだけど、上手く言えなくてアレだが、演劇を観た後の帰り道が好きだ。読書の場合、読書は場所を問わない。だから、ものすごく変なところでラストを迎えてしまうこともある。でも、演劇の場合、不便で「観に行かない」といけない。その日、その時、その場所で。演出された場でラストを迎える。そして、観客は家に帰らなければ行けない。その帰りの電車とかで考えたりするのが、本当、上手く表現できないけど、リアルな感じが残っていて、好きなのである。ぐだぐだ考えてしまうところが。

火曜か水曜
世にも奇妙な物語を見た気がする。本屋で実務系の本等を買った。ブログの本が増えている気がする。

木曜
最近、いろいろ調子が良い。