東京国際芸術祭2006

以下、2chスレよりコピペ。

=== QTE ===

ヒューザーの挑戦。奇跡の100平米マンション」

プロジェクトX〜挑戦者たち

ヒューザーの挑戦。奇跡の100平米マンション。

そのとき、小島は意外な事を言った。
「鉄筋を減らしてみたらどうだろう。」
姉歯は戸惑った。
RC造を人体に例えると、コンクリートは肉、鉄筋は骨にあたる。
それを減らそうと言うのだ。
「無理です。出来ません。」
小島は思わず叫んだ。
「俺たちがやらずに誰がやるんだ。俺たちの手で造り上げるんだ。」
男の熱い思いに、姉歯は心をうたれた。
技術者の血が騒いだ。
「やらせてください。」
夜を徹しての設計作業が始まった。

鉄筋を減らし、材料費を削り、耐震性は確保する。
まったく矛盾する作業だった。
技術的に不可能と思われた。
他の設計士にも相談した。
文献も読みあさった。
しかし、出てくる答えは一つ、「不可能」。
しかし姉歯は思った。
「出来る、いやできると信じなければ出来ない。」
姉歯は図面を引いた、繰り返し、繰り返し、、、
一日がすぎ、一週間がすぎ、一ヶ月が過ぎようとしていた。
しかし、図面は上がらなかった。
頭の中には一つの言葉しか出てこなかった「不可能」。
そのとき、姉歯はふと思った。
「不可能なんだ、不可能なことをやろうとしているんだ。」

そこへ木村が現れた。
そしてこう呟いた。
「考え方を変えるんだ。」
「耐震性を保つと言うことはどういうことか、考え方の根本を変えるんだ。」
姉歯には理解が出来なかった。
木村はこう続けた。
「耐震性があるということは、実際の地震で建物が倒れる危険性が無いと言うことだろうか?
いや、設計士にとって、耐震性があるということは、建築確認で耐震性があると認められることなのではないか。」
暗闇に光がさした気がした。
姉歯は、また机に向かった。

もう外は明るくなりかけていた。
そして、姉歯はおもむろに顔を上げた。
「出来た。」
姉歯設計第一号が完成した。
木村も駆けつけた。木村ともに一人の男も駆けつけた。
内河だった。
木村、内河、そしてあとから駆けつけた小島。
4人で杯を交わした。
内河が言った。
「これからだぞ、これからだ、この設計が、検査確認機関を通して始めて完成だ。」
姉歯は、身の引き締まる思いがした。
明日は日本ERIに確認申請を出す日だ。

=== UQT ===

明日が気になります。

今年もやってきた!本年度は特にテンション高い!注目は、サラ・ケインの劇作ではないでしょうか。加えて、アメリカ現代戯曲4作。いやー、楽しみですよ。

http://chelfitsch.net/
NHK教育で「チェルフィッチュ」の「目的地」がやってた。熱い。ダラダラわけわからなさ。人に何かを伝えるめんどくささ、モドカシサ、加えて、誤解を招きかねない曖昧さ。昨今、自分も傷つきたくないから、相手も傷つけたくない、ゆえに言い切るのは避けたい人々のダラダラ一人納得相撲を寧ろリアルに表現?誰も話を聞いてなさそうな状況で、とにかく説教っぽく一方的に語る。動きが言葉とも関連しない。会話にならない感じ。言葉に言葉を返すという形を基本とせず、スクリーンに出来事の流れが映されていく。混乱、ストレス、居心地の悪さと不安を感じ取れる。素晴らしい。別の作品で岸田國士戯曲賞受賞されたそうです。

ただ、納得できずにいるのは、「これから○○をします。彼はこう考えています」と言うところ。「敢えて」の演出であるとしても、やはり余計な解説では?と、思う。

「ゴドー」は、初演時、多くの人が最後まで劇を見ず、席を立ったと言われているが、本劇もそのような特性があるかも知れない。しかしながら、破断されているコミュニケーションのダダ漏れが、世相を潔く表現した鏡かも知れない。

NNNドキュメント’06 貧困社会日本」
厚生労働省の通達で、生活保護受給比率を上げられている地方(昔は国が高い比率で金を出していた)が、財政難から、生活保護費用をケチっているという話。番組自体は短いが、インパクトはあった。例えば、こんな例だ。

母子家庭で母親は鬱病で働けない。その母親の両親は新興宗教にはまってしまって、彼らが生活する必要最低限の金以外、全て新興宗教へ寄付している。この母親の両親はおそらく、この母親を熱心に勧誘しているはずで、勧誘と入信に快く従わないという理由でおそらく、母親の両親はその母親に金を出さない。母親は何度か窓口まで行ったが、生活保護も受けられず、母親は一日一食で我慢して、子供に飯を食わせているという状況である。当然のことながら、医療費もかかっている状況で母子家庭に収入はない。しかし、ある政治家の一声で今まで生活保護申請を受け付けてくれなかった地方が、支給を始めてくれた。それによって、やっと1日3食のご飯にありつけている。或いは、別のケースとして餓死。このご時世に餓死というのも信じられないが、そのような事件も生活保護受給の難しさが招いたとテレビは答えている。

話は飛ぶ。例えば、である。ものすごく極端な例として、「○○教に入信したら、仕事をしなくても死ぬまでお前に好きにお金やる」とか、「○○党または○○団に入れば、何もしなくても死ぬまでお金をやる、はい、契約書。」と気前のいいわけのわからない組織が目の前に現れたとしよう。その時、どのくらいの人がOK、YES!入ります!というだろうか。

まぁ、その組織に入会後に指図される「入会とひきかえのルール」とかはこの際は無視して、単純にそういう組織があったら、どれだけの人が入るだろうか、ということを考えよう。

国民の三大義務は 「仕事について働く義務」(勤労の義務 日本国憲法:第27条)、「税金を納める義務」(納税の義務 日本国憲法:第30条)、「子供に教育を受けさせる義務」(教育の義務 日本国憲法:第26条)。働く義務もなくなってしまう。

どのくらいの信念を金で買えるのか。人それぞれだとも思いますが、先ず、生きることが問題なのであれば、「本当は入会が嫌だとしても、ふりだけでも、その組織が好きとかなんとか言って、なんまんだぶ言ってりゃ良い」んだったら、なんまんだぶ言って臥薪嘗胆、金をもらい続けて、機を狙って内側から破壊してもそれは良いんじゃないかと。生きることが命題であれば、信条云々より、生きれれば良いわけですから。

しかし、実際に「仕事しなくて良いっすよ。一生、金あげますよ」と言われて、「じゃ、働くのやーめた」と言う日本人は実は少ないんじゃないかと思う。金もらってもなんとなく続けたり、やるんじゃないか。変な話、義務があるから、得られる経験もあるわけで。仕事が、その人の信用やアプルーバルへの足かせになっていたりして。やんなくちゃいけない義務と捉えるか、やることでも得られる義務と捉えるか、気持ちの問題も大きいわな。

話は飛ぶ。先日、テレビのインタビューで、「元経営者でした」的なじいさんが株の話やらパソコンの話をして、高級老人ホームのサービスを評価。要は、必死こいて時勢の流れに乗り遅れたくないおじいちゃまが、一般の老人ホームじゃなくて、ここの設備が良いんですよと、高級老人ホームのサービスを評価、紹介し、勝者の笑みを深く頬に残していたのだ。高級老人ホーム入居中のボケ老人が生涯最後の所属プライドで、よりリーズナブルでサービスの勝手が悪いと言われる老人ホーム入居中のボケ老人を軽蔑し、その選民意識を保っていると思うと、「地獄の沙汰も金次第」ってのも、重く響いてきますが、ボケ進行は前者の方が早いそうです。全部、やってくれるから脳みそ使わなくなるみたいで。

ボケた人がボケた人を格付けする絵もなかなか興味深いですが、昨今のマスコミ等による上流下流だの二極化を煽るのは良い傾向とは思えません。なんだか、全てギスギスしてしまうようで。

そういや、『煩悩ガールズ』ってどうなったの。。。