VITALICが素晴らしいことについて

言語表記不可能性などと言って、説明を逃げ出すクソ批評家を況や責められようか。このアルバムを聞いて、俺は文字情報化を強い続けてきた人間様の愚かさを強烈に感じずにはいられない。

そもそも、言葉っつーユニバーサルだかなんだか知らないが、
「全て」を言語つー枠組みで、発声し、文字平面化し、描き出そうとする行為が、おこがましいわけで。全部文字化できんじゃねぇのかと信じている人間様の過剰な文字情報に対する「依存」がかいまみえるわけで。いいから!もう、言語化しないでいいから!一瞬で終わって、知覚することができなくなってもそれはそれだから。そんなに文字を信頼するならば、今すぐビッグバンについて400文字原稿用紙で書いて頂きたいと。いや、ビッグバンでなくても受精でも良いよ。当然、ビッグバンなんか見たことないわけで、それが素晴らしいかどうかも知らぬわけで。

言語の目的の一つは「共有」だったのだろう。しかし、敢えて言ってやる。「共有」できない。共有の限界じゃ。ここまでいろんなもんが共有できたんだ。それで充分だ。感謝しよう。昔は、「ばば様、世界ってどーなっとんの?」って問いに、ばば様曰く「地球の周りでいろんなもんが動いとるんじゃよ、童ども」と、それが間違いで、地球が自転しているって情報、太陽系あるよ情報、これが世界中に流布されて、真実になって、もうそのくらいで充分じゃなかろうか。

なんで、そんなことを考えるか、いや、だってこれは、言語化できないんだもの。共有できない。がんばったけど、ダメだったっす!と壁ぶったたく甲子園敗退高校球児。

共有できないことが悪かといわれれば、別に悪でもない気がする、知ることが必ずしも善ではないし、多くの出来事はその奥にも意味が隠されていて、全てを知ることはできないわけだし、況や全てを経験することもできない@ファウスト。けれど、個々人が幾ばくかの経験はできるわけで、情報として受け取めることには限界があるけども、とりあえず経験だけはこの瞬間だけでも「SEIN」(ドイツ語の「存在する」というBe動詞)と信じられるなら、いくばくかのリアリティがあるなら、それでも良いんじゃないかと、ここがバーチャルであったとしても。

ヴィトゲンシュタイン肖像画に向かって赤でこうペイントする。語りえぬ快感は、一人で黙って楽しまなければならない。ものすごくダイレクトに言えば、1回のセックスの素晴らしさを50年語り尽くす人と、その50年でよりたくさんセックスをしている人、楽しいのはどっちだって話ですよ。文字情報様がそこまですごいんか?って話ですよ。寧ろ言葉への逆襲な。言葉破棄。言葉は要らぬ。言葉に頼らない。いや、それもまた、ロマンティズムが生まれ、停滞しやすいのですが、とりあえず論理や理解は全て幻想であるというところから始めたい。こうして、俺の混沌とした内面は一層どぶの色になっていくわけで、工場の煙かThe Wasteland(c)TSエリオット。

さて、言葉のボーダーを越えて、今年もエレグラ参加です。言ったそばから言葉に頼りつつ。

言語表記不可能性などと言って、説明を逃げ出すクソ批評家を況や責められようか。このアルバムを聞いて、俺は文字情報化を強い続けてきた人間様の愚かさを強烈に感じずにはいられない。

そもそも、言葉っつーユニバーサルだかなんだか知らないが、
「全て」を言語つー枠組みで、発声し、文字平面化し、描き出そうとする行為が、おこがましいわけで。全部文字化できんじゃねぇのかと信じている人間様の過剰な文字情報に対する「依存」がかいまみえるわけで。いいから!もう、言語化しないでいいから!一瞬で終わって、知覚することができなくなってもそれはそれだから。そんなに文字を信頼するならば、今すぐビッグバンについて400文字原稿用紙で書いて頂きたいと。いや、ビッグバンでなくても受精でも良いよ。当然、ビッグバンなんか見たことないわけで、それが素晴らしいかどうかも知らぬわけで。

言語の目的の一つは「共有」だったのだろう。しかし、敢えて言ってやる。「共有」できない。共有の限界じゃ。ここまでいろんなもんが共有できたんだ。それで充分だ。感謝しよう。昔は、「ばば様、世界ってどーなっとんの?」って問いに、ばば様曰く「地球の周りでいろんなもんが動いとるんじゃよ、童ども」と、それが間違いで、地球が自転しているって情報、太陽系あるよ情報、これが世界中に流布されて、真実になって、もうそのくらいで充分じゃなかろうか。

なんで、そんなことを考えるか、いや、だってこれは、言語化できないんだもの。共有できない。がんばったけど、ダメだったっす!と壁ぶったたく甲子園敗退高校球児。

共有できないことが悪かといわれれば、別に悪でもない気がする、知ることが必ずしも善ではないし、多くの出来事はその奥にも意味が隠されていて、全てを知ることはできないわけだし、況や全てを経験することもできない@ファウスト。けれど、個々人が幾ばくかの経験はできるわけで、情報として受け取めることには限界があるけども、とりあえず経験だけはこの瞬間だけでも「SEIN」(ドイツ語の「存在する」というBe動詞)と信じられるなら、いくばくかのリアリティがあるなら、それでも良いんじゃないかと、ここがバーチャルであったとしても。

ヴィトゲンシュタイン肖像画に向かって赤でこうペイントする。語りえぬ快感は、一人で黙って楽しまなければならない。ものすごくダイレクトに言えば、1回のセックスの素晴らしさを50年語り尽くす人と、その50年でよりたくさんセックスをしている人、楽しいのはどっちだって話ですよ。文字情報様がそこまですごいんか?って話ですよ。寧ろ言葉への逆襲な。言葉破棄。言葉は要らぬ。言葉に頼らない。いや、それもまた、ロマンティズムが生まれ、停滞しやすいのですが、とりあえず論理や理解は全て幻想であるというところから始めたい。こうして、俺の混沌とした内面は一層どぶの色になっていくわけで、工場の煙かThe Wasteland(c)TSエリオット。

さて、言葉のボーダーを越えて、今年もエレグラ参加です。言ったそばから言葉に頼りつつ。