ぉぃぉぃ

自由は実は幻想で、既に自由という発想自体が経験と認知の相対の結果としての自由という感覚で、箱ん中じゃねーかなどと考えてた。いや、そもそも、自由であるということ自体が不自由ではないかと。うまくいえませんが、世界が何か、こう「箱構造」、ドイツ語の定型変化動詞の文法構造になっているみたいな気になって、抗生物質漬けの豚!

例えば、週末は、仕事ないんで遊ぶ。その開放感と自由の感受性、つまり俺の経験から基づかれたシナプスの末端が信号する「なんか、自由っぽい」という信号は大学の頃のだらだら夏休みに比べてすごい「自由っぽい」と発している。自由=感覚の差異なんかな、と。

歴史を振り返れば、自由は「権利」として、「責任」として、市民社会、資本主義社会の中で重要な意味を持ってきたが、いつの時代とて、モノホンの自由は100億匹の人類の憧れであって(経済社会での場合、自由は、金を使うことで自由になれたりする。そういった全ての自由をずーっと感じ続けていて、俺は自由であると信じて疑わない人々も王侯貴族や世捨て人など特殊な人々の中には達成できた人もいるのかも知れない)、それは達成せざるを得ない空想の中に存在したからこそ、人はその美しい幻想を求めてがんばってきたんじゃないか。だとするなら、この自由という概念は近代以降最も、広告化に成功した概念ではなかろうかと思ったりもする。覆面作家舞城王太郎みたいなもん?希望、夢、自由。その素顔は明かされていないわけで、あー自由になりたいよー、と明かされていないからこそ、不明瞭だからこそ見たいという欲望。早稲田の手鏡の人が、うまく説明してくれると思います。

話は飛ぶけれども、あのポカリの「青いままでいこう!」っつーの。「青いまま」とは、すなわち「青二才、若者、青春の頃」の「青」というわけで、「若く行こう」という意味だろう。

いつの時代も、青二才は危なっかしいほどに世間知らずで常識知らずである。例えば、あれ「世間知らずでいこう!」。しかし、これはまぁ、似てても悪いイメージになってしまうので、「青いままで行こう!」になるだろうけど、その「青いまま」に俺らがものすごくだまされている踊らされている感じがするのは、これが広告マジックなんではないかと思ったり。そもそも、青いままってなんだよということで。「ものより思い出」ってのもそうね。悪い思い出ばかりだったら、ものがいいなぁ。

ナチュラルに、「良く」言う。イメージを良くする。それが広告マジックだとするなら、自由、権利、思いやり・・・僕らがそのマジックにだまされて、つまりは、社会が社会の一存在として生きる使命を与えるがため、多くの広告化された概念をずいぶん多く消化してきたんじゃないか。

北田さんのトゥルー・マンショーにおける女の子の飲む飲み物一つが広告になるみたいな、日常の僕らの選択の余地は、おおむね箱の形態の中にあって、感覚もある一定の箱の中にしかないし、それで絶望したとしてもその絶望という感覚も一定の箱の中にしかないし、つまり、俺は感覚的にも、思考的にも、身体的にも、ましてや、社会的、世界地理的にも、一生、箱の中で暮らすしかないという、諦めの諦めの最後の居直りしかなくなってくる。意味は常に意味で、りんご食べたいで便器を持ってくる人はいないように、無限の意味を持つ意味や言葉なんてないから、意味も意味。

それでもなお、「私は自由だ」とのんきに言えて、信じられる人間になりたいのである。自由に埋没させろ。しかしながら、例えば、週末の予定をたてる時だとか、俺は限られた日にちを限られた選択肢から選んで、レジャーだのホリデーなどとほざくが、それとて、他の人も同時に体験していることだ。自由、自由と言うが、一体何が自由なんだと考えたりする。部屋の掃除をしている時も、部屋という限られた空間で生活し、その限られた中で、あー面白かったなんて予定調和、まるで人生の全てが透けて見えそうなつまらなさであるなどと考えたりもする。

よく、未来は切り開くものだとか言う人間がいるが、生きるということは創造というより、限られた中からの限られた選択するといった方がふさわしい気がする。そんな優しいものでもないよと人は言うだろうが、私が言いたい選択とは自発的ではない、ものすごい量の無意識過ぎる選択の連続。

社会は自由を俺の目の前に垂らして、俺を走らせる。彼らは俺が退屈というと、その自由という概念をぱっと俺の鼻先に擦り付けてくる。よく見たら、周りにもそんなやつがいっぱいで、鼻息荒く自由やら夢やらを鼻先につけられて、走っている。

でも、まぁ、飢えてた方が面白いっちゃー、面白い(コージー富田風)

ホームシアター用にスクリーンを買ったのだが、取り付けがむずい。人を好きになるってことは、些細に思えて、その人の人生を変えちゃうほど、すごいことだ。好きを越えるすげーことなんて死以外ほぼどーでもいい。好きを変えるのは、というか、好きが死ぬのは死んだ時だろう。
空港はいつも旅立ち見送り再会に満ちていて、もしあなたが愛を信じられなくなったら、空港に行けばいい、空港は今日も家族、恋人の愛と人を想う心で溢れているというお話をネットで読んで、なかなか、すがすがしくなった。

自由は実は幻想で、既に自由という発想自体が経験と認知の相対の結果としての自由という感覚で、箱ん中じゃねーかなどと考えてた。いや、そもそも、自由であるということ自体が不自由ではないかと。うまくいえませんが、世界が何か、こう「箱構造」、ドイツ語の定型変化動詞の文法構造になっているみたいな気になって、抗生物質漬けの豚!

例えば、週末は、仕事ないんで遊ぶ。その開放感と自由の感受性、つまり俺の経験から基づかれたシナプスの末端が信号する「なんか、自由っぽい」という信号は大学の頃のだらだら夏休みに比べてすごい「自由っぽい」と発している。自由=感覚の差異なんかな、と。

歴史を振り返れば、自由は「権利」として、「責任」として、市民社会、資本主義社会の中で重要な意味を持ってきたが、いつの時代とて、モノホンの自由は100億匹の人類の憧れであって(経済社会での場合、自由は、金を使うことで自由になれたりする。そういった全ての自由をずーっと感じ続けていて、俺は自由であると信じて疑わない人々も王侯貴族や世捨て人など特殊な人々の中には達成できた人もいるのかも知れない)、それは達成せざるを得ない空想の中に存在したからこそ、人はその美しい幻想を求めてがんばってきたんじゃないか。だとするなら、この自由という概念は近代以降最も、広告化に成功した概念ではなかろうかと思ったりもする。覆面作家舞城王太郎みたいなもん?希望、夢、自由。その素顔は明かされていないわけで、あー自由になりたいよー、と明かされていないからこそ、不明瞭だからこそ見たいという欲望。早稲田の手鏡の人が、うまく説明してくれると思います。

話は飛ぶけれども、あのポカリの「青いままでいこう!」っつーの。「青いまま」とは、すなわち「青二才、若者、青春の頃」の「青」というわけで、「若く行こう」という意味だろう。

いつの時代も、青二才は危なっかしいほどに世間知らずで常識知らずである。例えば、あれ「世間知らずでいこう!」。しかし、これはまぁ、似てても悪いイメージになってしまうので、「青いままで行こう!」になるだろうけど、その「青いまま」に俺らがものすごくだまされている踊らされている感じがするのは、これが広告マジックなんではないかと思ったり。そもそも、青いままってなんだよということで。「ものより思い出」ってのもそうね。悪い思い出ばかりだったら、ものがいいなぁ。

ナチュラルに、「良く」言う。イメージを良くする。それが広告マジックだとするなら、自由、権利、思いやり・・・僕らがそのマジックにだまされて、つまりは、社会が社会の一存在として生きる使命を与えるがため、多くの広告化された概念をずいぶん多く消化してきたんじゃないか。

北田さんのトゥルー・マンショーにおける女の子の飲む飲み物一つが広告になるみたいな、日常の僕らの選択の余地は、おおむね箱の形態の中にあって、感覚もある一定の箱の中にしかないし、それで絶望したとしてもその絶望という感覚も一定の箱の中にしかないし、つまり、俺は感覚的にも、思考的にも、身体的にも、ましてや、社会的、世界地理的にも、一生、箱の中で暮らすしかないという、諦めの諦めの最後の居直りしかなくなってくる。意味は常に意味で、りんご食べたいで便器を持ってくる人はいないように、無限の意味を持つ意味や言葉なんてないから、意味も意味。

それでもなお、「私は自由だ」とのんきに言えて、信じられる人間になりたいのである。自由に埋没させろ。しかしながら、例えば、週末の予定をたてる時だとか、俺は限られた日にちを限られた選択肢から選んで、レジャーだのホリデーなどとほざくが、それとて、他の人も同時に体験していることだ。自由、自由と言うが、一体何が自由なんだと考えたりする。部屋の掃除をしている時も、部屋という限られた空間で生活し、その限られた中で、あー面白かったなんて予定調和、まるで人生の全てが透けて見えそうなつまらなさであるなどと考えたりもする。

よく、未来は切り開くものだとか言う人間がいるが、生きるということは創造というより、限られた中からの限られた選択するといった方がふさわしい気がする。そんな優しいものでもないよと人は言うだろうが、私が言いたい選択とは自発的ではない、ものすごい量の無意識過ぎる選択の連続。

社会は自由を俺の目の前に垂らして、俺を走らせる。彼らは俺が退屈というと、その自由という概念をぱっと俺の鼻先に擦り付けてくる。よく見たら、周りにもそんなやつがいっぱいで、鼻息荒く自由やら夢やらを鼻先につけられて、走っている。

でも、まぁ、飢えてた方が面白いっちゃー、面白い(コージー富田風)

ホームシアター用にスクリーンを買ったのだが、取り付けがむずい。人を好きになるってことは、些細に思えて、その人の人生を変えちゃうほど、すごいことだ。好きを越えるすげーことなんて死以外ほぼどーでもいい。好きを変えるのは、というか、好きが死ぬのは死んだ時だろう。
空港はいつも旅立ち見送り再会に満ちていて、もしあなたが愛を信じられなくなったら、空港に行けばいい、空港は今日も家族、恋人の愛と人を想う心で溢れているというお話をネットで読んで、なかなか、すがすがしくなった。