退屈な文化祭を抜け出して・・・

先日、とらばー湯について書いた。批判するつもりはなく、シンプルに、どこか、文化祭を思い出す景色だった。有名パティシエのスウィーツ(おやつだろ、おやつ!)だのランチだの表紙モデルだのピンクのフライヤー配るところだの、屋台チックで文化祭チックなそれ。あれくらいのノリや空間、文化祭でも出せるアトモスファーじゃなかろうか。

良い意味で青臭さ。良い意味で「成長する自由」などという何一つ具体性が見えないが、おもしろたのしくさせたい標語。良い意味で、広告的。そんなわざとらしいへにゃへにゃさが、文化祭、イベントのとにかく、祭りなんだし「楽しくやろうや」感とfeatureしていたように思う。

文化祭の準備やら、後片付けというと、僕はどっかで休んでいた(当然、怒られた)。でも、あの時が一番楽しかったように思う。文化祭を抜け出して、女の子や友達とどっか行った。友達と屋上に行って、皆の後片付けを見たり、サッカーして準備しなかったり。あおくさすぎるし、痛すぎる。

何故、抜け出すのが楽しいのか。文化祭、体育祭、要は祭り、イベントの準備っつーと、やる人、クラス一丸、部一丸で雑務。内部の信頼関係の強化を期待され、クラスの自律性を望まれる。これは、実は、非常にうっとうしい。とりあえず、「やるぞ」「おー」といくわけだが、後々、だれる。

クラスの人気者だか先生だかが仕切って、どんどん準備や後片付けの仕事をくれるのは幸せだが、多くの場合、準備・後片付けに慣れていない人がいきなりしきるわけで、非効率的・非合理的な仕事分配が多く、結果、「XX待ち」などと、鍋もったまま待機とかラワン材もって待機とか、要は、ぼーっとしている時間が多い。これは、指示待ち人間が多いからではなく、多くの祭の準備・後片付けが、おいそれと予定外に適当になんかおっぱじめることが実は禁止されているからだ。微妙にルールがゆるくなったところから、ルール再発行。興奮、醒めまくる。扉が開くの待って、鍋洗ってる俺なんだろって気になる。

そして、祭りの後片付けってのは、どこかせつない。どうせ、設営したなら、永久にそこを興奮の場にでもしてしまえカモン、イビザ!カモン、ハシエンダ!とも思うのだが、祭りにも始まりと終わりがあるわけで、つまり、時間の制約の中で一瞬の火花を味わわなくてはいけないような、時間的場所的刹那的快楽をその祭りに見てしまった後の「せつなさ」。限られた時間で楽しむしかない。その一瞬が楽しくて面白いほど、二度とこないような喪失感を味わうことになる。恋愛と同じだ。「祭りのあと」。

であるから、僕をはじめとする多くの快楽至上主義者は、後片付けなんてやりたくないわけで、祭りのもっとも核の部分、つまり、一瞬の楽しさ、おもろさがあれば良いのである。文化祭実行委員が、準備と後片付けをして、「俺ら一丸だよな、やりきったぜ、流石だよな俺ら」というような閉鎖的プチクラスリズム(ナショナリズムではなく・・・)や馴れ合い、達成感のアドレナリン分泌では足りない。彼ら催す人々の「成功」は一連の流れ、つまり、準備から後夜祭の無事終了なのだろうが、僕は、「祭りのあと」を見たくない、体験したくないから、祭りの一番良いところを見て、体験したら早速、そこから抜け出して、アドレナリン維持、つまり、祭りの中核を体験したらそれもすぐ醒めて退屈に、フェードアウトに向かうなら、どっか行こうぜとなるわけである。

これは、一連の流れを「団体の結束」と思う人には、顰蹙をかう行動であるが、祭りがめちゃ楽しいとしても、収束に向かってしまうのであれば、「退屈だね、どっか行こう」となるのが、島根スリム、ガクランライダー@ギターウルフなのであって、脱走の楽しさの醍醐味でもある。

逃走してどこに行く?結果、行き着く先なんてたかが知れてる。逃げたところにも強固なルールはある。ロバートハリスじゃあるまいし、ビートニクでもあるまいし、ピューリタンでもあるまいし。ここにはないどこかに希望や楽園?あるわけない。そこから離れても、目的の場所も意味も望んでいない。その辺は絶望している。

要は、人数など関係なしに、脳内興奮物質を維持したいだけのエンドルフィンマシン@プリンス。シンプルである。「楽しいなら続けろ、つまらないならやめろ」である。やめる時は、無理だからじゃない。「つまらない」と思った時だけである。面白かったら、続けたい。結果として、ぶっ壊れたって良いじゃん。

などとぐだぐだ考えつつも、「モーターサイクルダイアリ−ズ」にやや期待を込めつつ、ひゃっほう、コスモス畑に行きたい!

先日、とらばー湯について書いた。批判するつもりはなく、シンプルに、どこか、文化祭を思い出す景色だった。有名パティシエのスウィーツ(おやつだろ、おやつ!)だのランチだの表紙モデルだのピンクのフライヤー配るところだの、屋台チックで文化祭チックなそれ。あれくらいのノリや空間、文化祭でも出せるアトモスファーじゃなかろうか。

良い意味で青臭さ。良い意味で「成長する自由」などという何一つ具体性が見えないが、おもしろたのしくさせたい標語。良い意味で、広告的。そんなわざとらしいへにゃへにゃさが、文化祭、イベントのとにかく、祭りなんだし「楽しくやろうや」感とfeatureしていたように思う。

文化祭の準備やら、後片付けというと、僕はどっかで休んでいた(当然、怒られた)。でも、あの時が一番楽しかったように思う。文化祭を抜け出して、女の子や友達とどっか行った。友達と屋上に行って、皆の後片付けを見たり、サッカーして準備しなかったり。あおくさすぎるし、痛すぎる。

何故、抜け出すのが楽しいのか。文化祭、体育祭、要は祭り、イベントの準備っつーと、やる人、クラス一丸、部一丸で雑務。内部の信頼関係の強化を期待され、クラスの自律性を望まれる。これは、実は、非常にうっとうしい。とりあえず、「やるぞ」「おー」といくわけだが、後々、だれる。

クラスの人気者だか先生だかが仕切って、どんどん準備や後片付けの仕事をくれるのは幸せだが、多くの場合、準備・後片付けに慣れていない人がいきなりしきるわけで、非効率的・非合理的な仕事分配が多く、結果、「XX待ち」などと、鍋もったまま待機とかラワン材もって待機とか、要は、ぼーっとしている時間が多い。これは、指示待ち人間が多いからではなく、多くの祭の準備・後片付けが、おいそれと予定外に適当になんかおっぱじめることが実は禁止されているからだ。微妙にルールがゆるくなったところから、ルール再発行。興奮、醒めまくる。扉が開くの待って、鍋洗ってる俺なんだろって気になる。

そして、祭りの後片付けってのは、どこかせつない。どうせ、設営したなら、永久にそこを興奮の場にでもしてしまえカモン、イビザ!カモン、ハシエンダ!とも思うのだが、祭りにも始まりと終わりがあるわけで、つまり、時間の制約の中で一瞬の火花を味わわなくてはいけないような、時間的場所的刹那的快楽をその祭りに見てしまった後の「せつなさ」。限られた時間で楽しむしかない。その一瞬が楽しくて面白いほど、二度とこないような喪失感を味わうことになる。恋愛と同じだ。「祭りのあと」。

であるから、僕をはじめとする多くの快楽至上主義者は、後片付けなんてやりたくないわけで、祭りのもっとも核の部分、つまり、一瞬の楽しさ、おもろさがあれば良いのである。文化祭実行委員が、準備と後片付けをして、「俺ら一丸だよな、やりきったぜ、流石だよな俺ら」というような閉鎖的プチクラスリズム(ナショナリズムではなく・・・)や馴れ合い、達成感のアドレナリン分泌では足りない。彼ら催す人々の「成功」は一連の流れ、つまり、準備から後夜祭の無事終了なのだろうが、僕は、「祭りのあと」を見たくない、体験したくないから、祭りの一番良いところを見て、体験したら早速、そこから抜け出して、アドレナリン維持、つまり、祭りの中核を体験したらそれもすぐ醒めて退屈に、フェードアウトに向かうなら、どっか行こうぜとなるわけである。

これは、一連の流れを「団体の結束」と思う人には、顰蹙をかう行動であるが、祭りがめちゃ楽しいとしても、収束に向かってしまうのであれば、「退屈だね、どっか行こう」となるのが、島根スリム、ガクランライダー@ギターウルフなのであって、脱走の楽しさの醍醐味でもある。

逃走してどこに行く?結果、行き着く先なんてたかが知れてる。逃げたところにも強固なルールはある。ロバートハリスじゃあるまいし、ビートニクでもあるまいし、ピューリタンでもあるまいし。ここにはないどこかに希望や楽園?あるわけない。そこから離れても、目的の場所も意味も望んでいない。その辺は絶望している。

要は、人数など関係なしに、脳内興奮物質を維持したいだけのエンドルフィンマシン@プリンス。シンプルである。「楽しいなら続けろ、つまらないならやめろ」である。やめる時は、無理だからじゃない。「つまらない」と思った時だけである。面白かったら、続けたい。結果として、ぶっ壊れたって良いじゃん。

などとぐだぐだ考えつつも、「モーターサイクルダイアリ−ズ」にやや期待を込めつつ、ひゃっほう、コスモス畑に行きたい!