っていうかさ

はい、どうも。今日は健康診断やらこまごまと・・・。ちゅーっと、採血。日本橋、有楽町、田町(三田二郎・最後の客だった)、神田(多町)、淡路町、どんだけ回るのかと。引っ越しのため、家具を買うことになったので、結構真剣に見てます。インテリア系のスタッフの方々は家庭的雰囲気の人が多いような気がします。気のせい?

今後のことばかり考えてもしょうがないので、女の子は何でかわいいのかについて考えた。嘘です。考えても仕方ない。要するに、花だ!人類の花は20年くらいで華々しく咲くのだ。つぼみの時点で養育する喜びを得る人もいるけど、とにかく花が歩いてるのだ。花が。

でも、安野モヨコの「花とみつばち」では、女の子は「花」ではなかった。僕は花が女子の比喩だと先入観を持って読んでいたが、違うのだ。みつばちが女子なのだ。むむむ。深いぜ。その辺が、最近の女子の自立意識やアクティブネスが象徴されているような。。。じゃ、俺ら男子は、みつばちの前で静止している花なのか?っつーと、えー?そんな魅力を、構築したいですよ。

今日も帰りの満員電車で、隣のオヤジは夕刊フジだし、隣のオヤジはぐったり肩にもたれてくる。僕が中学1年の頃、既に、このfuck'in shit人身事故と痴漢のたまり場某路線各駅停車で「あー、こんな生活がずっと続くのかよ・・・」と鞄の中の弁当を駅員に押しつぶされつつ、なんかの弁当汁が鞄につきつつ、日々之、窒息寸前の朝の通勤ラッシュ。「オフピーク通勤」などという車内ポスターが虚しく揺れる朝の7時8時、通勤ラッシュで通学して、部活後毎夕、酔っぱらいを見ていた学生の僕は、サラリーマンが本当にうざくてうざくてしょうがなかったが、現在、そのうざいサラリーマン生活に突入しつつあり、人生は呼吸し続ける限り、不可避なトラブルばかりであり、本音と建前、皮肉な運命、金と労働と資本は恒常的に存在し、何かの柵の中にのみ存在する自由、迷惑この上ない、この電車のレールみたいな人生に、つまり、限界が定まっている奴隷って意味で、ゲームの中のプレイヤーに俺自身も重ねて、I hope that you chokeと張作霖爆破事件でも起こしたくなって、お前ら、リセットボタン押すか?押す!押す!オッス!自分は連射しやっす!的な20代の狂気の桜。

ヤフーカテゴリで「エンターテイメント」がある時点で、苛立ちが募るわけで。何か、俺がエンターテイメントしたくて、知りたくて、体験したく、始めたくて、そこをクリックしている間抜けさが浮き彫りになっているようで、客観的に「エンターテイメント」をクリックするバカ一人なようで。ツアーガイドに「ほーら、パンダ君が笹食べましたよー、ひっかかりましたよー」的注釈をされている動物園のパンダ的な「動物園物語」。つまり、僕は常に、マーケットのターゲットであり、ポーケットの中にはビスケットが一つだったのです。

というか、今、ここで俺自身が、エンターテイメントに「なれば」良いのに、クリックするということ、つまり、「エンターテイメント」を今、ここで他者の補助によって、エンジョイしたい、「金払うから、僕を楽しくしてよ」的自分がものすごく無様に見えて、いや、それより何より「エンターテイメント」がカテゴリー化されていることに対する何とも言えない不全感、それこそ各駅停車のような段階的憤り。創出すること、発表すること、表現すること、自分はエンジョイしていると信じることより何より、「選ぶこと」が重要になっているということに、「エンターテイメント」の思考すら縛られているみたいで、あほらしい、ばからしい、ほら、「何故、鬼ごっこが楽しいか」を解説する心理学者がいる、そんなの聞いてもしょうがない、楽しけりゃ良いで思考停止してもそれはそれで哲学じゃん。サザンオールスターズは人気者。

だから、ここで、今すぐ、エンターテイメントを表出すれば良いだけの話だ。何を俺は「クリック」しているのだ。予定調和に期待して、「あ、ここでぼける、ここではじける、ここでつっこむ、はい、楽しかった」などと日常をシュミレーションしながら暮らし続け、誰かを誰かの役に当てはめ、永遠に拡大解釈して、あれですか?脳内自分史ですか?何かが起こることを、待って、楽しんで、期待しているのだ。そんなもんは、他者の力を借りず、自分で紡げ!と思う一方で、ちょっとまて、「やっぱ、協力がないと、全然つまらん」などとも思い(世界一、速く走れる人が、オリンピックには出ない、俺はオレンピック(俺のためのオリンピック)をする!と言っても、「楽しいか?それ」じゃん!自分で言ってて、くだらねー)、今流行の、ネットで知り合って、結婚しましたという出会い系、系っていうか、要するに「出会い」ね、そこに何か「くぅー、ユーガットメール」とうらやましがる自分は、「エンターテイメント」をやはり、他者の力によって得ようとするエンターテイメント乞食(金額=幸福感のバロメーターのように、信じることも・・・)だと自省しつつ、TDLやフジテレビなぞが「どしろうと」的な一億総タレント化的視点、つまり「人生ってシャレでしょ」などと言い出すのをしたたかに見つめつつ、何かこう馬鹿になりきれない自己をお立ち台に、空の踊り場に、踊り狂いたい!踊り狂いたい!

そもそも、こんな程度の低い妄想をするのは、他人とは違うというクソ自意識が邪魔をしているせいなのだ、その自意識を、プライドを最低のところで保持するための仮想敵国のようなものを多分、俺は待っているんだろう。。。

人権蹂躙工場、鉄工所、原子力発電所、丸の内でも、風紀と生産性の向上のため、偶像が舞い降りて、「がんばれば、いいものあげる」と言う。皆は、そのシンボルを増強しつつ、えんやこら、働く。

ぷぷぷ、ぷぷぷぷぷぷぷ、ぷぷぷぷーぷぷぷーぷぷぷーぷぷん(欽ちゃんの仮装大賞の音)

欽ちゃんの前でぼけを強要される一般人と香取しんごの「すげぇ、すげぇ」。

いや、もういいから。何が?何かが。

ここにきて、僕は占い好き女子の厚い「層」が存在することを、血液型コミュで再確認しました。悪く言うつもりはないのですが、血液型コミュ(他に比べ、参加人数多く、それだけで、一般的な所属意識を星座や血液型に求める人が多いってのが分かる)の「わかるわかる、そうだよねーX型って」とか「そうそう、X座、そう!」とか、そういうの。

悪く言うつもりはないですが、議論が白熱しすぎてて、これはどこに向かうのかかなり興味があります。もう、これ!結論!これ、これX座X型の男!みたいな「特徴囲いこみ」が日に日にエスカレートしている気がします。

最終的に出てくるその議論の末のX座とかX型はこんな人ってのがそのコミュの意義なのかどうか分かりませんが(最近、テレビでも幼稚園児使ってよくやってないですか?あれの結論も、X型ってこう!というものだけど、むー、つまり、気にする人が世の中には多いんですな)、それもどうよ?とりあえず、魚座は不遇であります。「魚座はテキトー」とか。他の星座はよく言ってくれるのに、これは凹む。

はい、どうも。今日は健康診断やらこまごまと・・・。ちゅーっと、採血。日本橋、有楽町、田町(三田二郎・最後の客だった)、神田(多町)、淡路町、どんだけ回るのかと。引っ越しのため、家具を買うことになったので、結構真剣に見てます。インテリア系のスタッフの方々は家庭的雰囲気の人が多いような気がします。気のせい?

今後のことばかり考えてもしょうがないので、女の子は何でかわいいのかについて考えた。嘘です。考えても仕方ない。要するに、花だ!人類の花は20年くらいで華々しく咲くのだ。つぼみの時点で養育する喜びを得る人もいるけど、とにかく花が歩いてるのだ。花が。

でも、安野モヨコの「花とみつばち」では、女の子は「花」ではなかった。僕は花が女子の比喩だと先入観を持って読んでいたが、違うのだ。みつばちが女子なのだ。むむむ。深いぜ。その辺が、最近の女子の自立意識やアクティブネスが象徴されているような。。。じゃ、俺ら男子は、みつばちの前で静止している花なのか?っつーと、えー?そんな魅力を、構築したいですよ。

今日も帰りの満員電車で、隣のオヤジは夕刊フジだし、隣のオヤジはぐったり肩にもたれてくる。僕が中学1年の頃、既に、このfuck'in shit人身事故と痴漢のたまり場某路線各駅停車で「あー、こんな生活がずっと続くのかよ・・・」と鞄の中の弁当を駅員に押しつぶされつつ、なんかの弁当汁が鞄につきつつ、日々之、窒息寸前の朝の通勤ラッシュ。「オフピーク通勤」などという車内ポスターが虚しく揺れる朝の7時8時、通勤ラッシュで通学して、部活後毎夕、酔っぱらいを見ていた学生の僕は、サラリーマンが本当にうざくてうざくてしょうがなかったが、現在、そのうざいサラリーマン生活に突入しつつあり、人生は呼吸し続ける限り、不可避なトラブルばかりであり、本音と建前、皮肉な運命、金と労働と資本は恒常的に存在し、何かの柵の中にのみ存在する自由、迷惑この上ない、この電車のレールみたいな人生に、つまり、限界が定まっている奴隷って意味で、ゲームの中のプレイヤーに俺自身も重ねて、I hope that you chokeと張作霖爆破事件でも起こしたくなって、お前ら、リセットボタン押すか?押す!押す!オッス!自分は連射しやっす!的な20代の狂気の桜。

ヤフーカテゴリで「エンターテイメント」がある時点で、苛立ちが募るわけで。何か、俺がエンターテイメントしたくて、知りたくて、体験したく、始めたくて、そこをクリックしている間抜けさが浮き彫りになっているようで、客観的に「エンターテイメント」をクリックするバカ一人なようで。ツアーガイドに「ほーら、パンダ君が笹食べましたよー、ひっかかりましたよー」的注釈をされている動物園のパンダ的な「動物園物語」。つまり、僕は常に、マーケットのターゲットであり、ポーケットの中にはビスケットが一つだったのです。

というか、今、ここで俺自身が、エンターテイメントに「なれば」良いのに、クリックするということ、つまり、「エンターテイメント」を今、ここで他者の補助によって、エンジョイしたい、「金払うから、僕を楽しくしてよ」的自分がものすごく無様に見えて、いや、それより何より「エンターテイメント」がカテゴリー化されていることに対する何とも言えない不全感、それこそ各駅停車のような段階的憤り。創出すること、発表すること、表現すること、自分はエンジョイしていると信じることより何より、「選ぶこと」が重要になっているということに、「エンターテイメント」の思考すら縛られているみたいで、あほらしい、ばからしい、ほら、「何故、鬼ごっこが楽しいか」を解説する心理学者がいる、そんなの聞いてもしょうがない、楽しけりゃ良いで思考停止してもそれはそれで哲学じゃん。サザンオールスターズは人気者。

だから、ここで、今すぐ、エンターテイメントを表出すれば良いだけの話だ。何を俺は「クリック」しているのだ。予定調和に期待して、「あ、ここでぼける、ここではじける、ここでつっこむ、はい、楽しかった」などと日常をシュミレーションしながら暮らし続け、誰かを誰かの役に当てはめ、永遠に拡大解釈して、あれですか?脳内自分史ですか?何かが起こることを、待って、楽しんで、期待しているのだ。そんなもんは、他者の力を借りず、自分で紡げ!と思う一方で、ちょっとまて、「やっぱ、協力がないと、全然つまらん」などとも思い(世界一、速く走れる人が、オリンピックには出ない、俺はオレンピック(俺のためのオリンピック)をする!と言っても、「楽しいか?それ」じゃん!自分で言ってて、くだらねー)、今流行の、ネットで知り合って、結婚しましたという出会い系、系っていうか、要するに「出会い」ね、そこに何か「くぅー、ユーガットメール」とうらやましがる自分は、「エンターテイメント」をやはり、他者の力によって得ようとするエンターテイメント乞食(金額=幸福感のバロメーターのように、信じることも・・・)だと自省しつつ、TDLやフジテレビなぞが「どしろうと」的な一億総タレント化的視点、つまり「人生ってシャレでしょ」などと言い出すのをしたたかに見つめつつ、何かこう馬鹿になりきれない自己をお立ち台に、空の踊り場に、踊り狂いたい!踊り狂いたい!

そもそも、こんな程度の低い妄想をするのは、他人とは違うというクソ自意識が邪魔をしているせいなのだ、その自意識を、プライドを最低のところで保持するための仮想敵国のようなものを多分、俺は待っているんだろう。。。

人権蹂躙工場、鉄工所、原子力発電所、丸の内でも、風紀と生産性の向上のため、偶像が舞い降りて、「がんばれば、いいものあげる」と言う。皆は、そのシンボルを増強しつつ、えんやこら、働く。

ぷぷぷ、ぷぷぷぷぷぷぷ、ぷぷぷぷーぷぷぷーぷぷぷーぷぷん(欽ちゃんの仮装大賞の音)

欽ちゃんの前でぼけを強要される一般人と香取しんごの「すげぇ、すげぇ」。

いや、もういいから。何が?何かが。

ここにきて、僕は占い好き女子の厚い「層」が存在することを、血液型コミュで再確認しました。悪く言うつもりはないのですが、血液型コミュ(他に比べ、参加人数多く、それだけで、一般的な所属意識を星座や血液型に求める人が多いってのが分かる)の「わかるわかる、そうだよねーX型って」とか「そうそう、X座、そう!」とか、そういうの。

悪く言うつもりはないですが、議論が白熱しすぎてて、これはどこに向かうのかかなり興味があります。もう、これ!結論!これ、これX座X型の男!みたいな「特徴囲いこみ」が日に日にエスカレートしている気がします。

最終的に出てくるその議論の末のX座とかX型はこんな人ってのがそのコミュの意義なのかどうか分かりませんが(最近、テレビでも幼稚園児使ってよくやってないですか?あれの結論も、X型ってこう!というものだけど、むー、つまり、気にする人が世の中には多いんですな)、それもどうよ?とりあえず、魚座は不遇であります。「魚座はテキトー」とか。他の星座はよく言ってくれるのに、これは凹む。