「ニートやるなら都市」のこれだけの理由

タイトルだけblog記事風に。『今、「ニートやるなら都市」の3つの理由』とかでも良かった。読み手を意識して、ぽっくん真鍋かをりタソみたいに。。。

小生は昨今の目の淀んだキレるつまらない根性のない若者に代表される田舎生まれニュータウン育ち。なので、村社会のねちねち感とニュータウンのドライさの両方を経験している。ニュータウンの雰囲気を一言で説明するのは難しいが、核家族が近所付き合い薄く各々暮らしている感じ。ニュータウン在住のニューファミリーは、しがらみの少ない中でそれなりの居心地の良さを感じていたとは思うが、一方で、そういった家庭によくあるのが、父権の喪失。近所のジジババとか偏屈頑固オヤジがいないわけで、子供のフリーダム具合がすごくなる。
だから小さい頃、特に感じていたのは、躾のなっていない子供って多いなぁということ。小生も躾られてきてはいなかったし、躾とかいって大人側のエゴでしょ、うんこでしょと思っていたくらいで、あまり気にはしなかったけど、今思うと、あれはあれでなかなか失礼なというか、クソガキであるなぁと省みざるを得ない。結局、両親が働いていたりするので、子供が勝手に遊ぶ。親が忙しいが故(忙しい上に貧しいのもある)、子供に無関心になっているようなところがあって、鍵っこが結構遅くまで遊んでいたりする。ニュータウンのガキの不良発生率は、下町より高いような気がする。フリーダム過ぎるから。

一方で、hood。今時、屋号がある集落で小生は生まれた。昔からあった町で、集落も狭く、暇な老人がいっぱいいて、噂とかニュースがすぐに広まる。その広まり方は徐々に偏見を帯び、そのねちっこさというかべたべた感にたまらない窮屈感を感じたものである。like that.

「あそこのレストランの奥さん、ラーメン美味しそうに食べてたわよ」

上記台詞は概ねババァが発する類いの言葉であるが、これが田舎の本質である。この台詞は本当にトリッキーで根深い暗黒がある。この台詞には発話者のいくつかの侮蔑と偏見、そして相手の反応をうかがおうとする狡猾な好奇心が隠れている。先ず、「あの奥さんのご主人はレストランをやっているのに、何でわざわざラーメンなんて食べているのかしら。レストラン、不味いんじゃないの?」という暗喩。2に、「外にラーメン食べにいく暇あるなら、店を手伝うなり、家事をしっかりやったらどうなの?、何サボってんのかしら、それとも、どっかの店のラーメンを食べられるくらいお客がこないのかしら」という侮蔑。3、「あの不味いラーメン屋のラーメンを美味しく食べてた。どういうことかしら。同情で食べているのかしら。あそこのラーメンを私は美味しいとは思わない。でもあの奥さんは美味しそうに食べている。あの奥さんの味覚は私とは違う。味覚がおかしいんじゃないのかしら。そうに違いないわ。だってあの不味いラーメン屋のラーメンを美味しそうに食べているってのがおかしいもの」という偏見。4、単純な驚き。いらんことまで喋る天然馬鹿。
まぁ、4だけだったら、善人。しかし、「食べてたわよ」でしめるのがこのババァのdisり技術。ひとまず、相手の反応を聞きたいのだろう。「そうですか」と右から左へ受け流すのが大人だろうが、「あら、そうなの?」とか言った日にゃ、もろ、ババァゾーン。ババァのルサンチマン炸裂。
こういうのを直接本人には言わず、そのご主人の友達とか親とかに言うというのが極めて田舎ババァど真ん中。「渡る世間は鬼ばかり」の赤木春恵(姑のババァ)の役、間違いなく射止められる。暇なのか。やることないのか。飲食店の奥さんがラーメン食っちゃいけないのか。食ったって良いだろう。何も悪いことしちゃいないだろうに。それを敢えて報告する必要があるのか。so what?であるが故、疑問はつきない。しかし、これが田舎の監視社会の本質である。プライバシーalmostなし。中世の封建制度がまだ息づいているというか。君主や領主はいわば、テレビの芸能人のようなもので、解放された農奴がてめーらの道徳感で必死こいてdisりあっている。

「○○のせがれ」

これも田舎度の高い台詞。どこどこの誰が何やっているかとかどこどこの誰はバツイチとかそういう情報が偏見を帯びて語られていくので、子供はそのdisりで強くなっているところがあると思う。まともなやつなんてそうそういないが、まともなやつが話に出てこないから、そういうところの子供は反面教師で結構まともになる。ニュータウンの子供はそういう話を聞く機会が圧倒的に少ないから、もったいない。田舎の人の話では、誰々ちゃんはどーだ、誰々さんはどーだ。いわば、全員舞台の中の人なのだ。自分以外をカテゴリー化して、役を与えていってしまう。それが彼らにとっての安心を得る方法なのだ。そういうやり方で世界を把握するしかないのだ。時々、マジくだらねーと舞台を観客から見る視点が出てくるけども、近所付き合いとかdisりあいによってしか生まれないドロドロとした監視的な人間関係が、クソ大人の例示をしてくれることで、小生は非常に勉強になった、と思っている。疲れますが。他人に感心のある人々も他人に感心のない人々も結局てめーらの都合で生きてはいるが、他人へ感心がない人もそういう振る舞いをしてしまうことで、自覚なくその生き方で周りを巻き込んでいる。

何が言いたいのか良くわからなくなってきたけども、田舎で自宅警備員されている方々は、都市の自宅警備員より辛そうだ。風土がねちっこくて。