「終わらない物語〜アビバの場合〜」

「スパニッシュアパートメント」は観てないのですが、シャンテシネで観てきた。

そこそこおもろかったが、長かった。小説家になりたい物書き男の30手前の恋愛話。最初に「話は一年前に戻る」って演出なのだが、長いなー。あれ、寧ろ、いらなかったんじゃないか。この作品を観て、「これがヨーロッパの若者」的な俄若者論を語る人が多そう。確かに、若者を描いてはいるが、これで若者を語るにはあまりに稚拙な論拠だろうなぁ。

映画自体に実験的試みも多少はあるが、観ていて、なんか日本と感覚が似ているなーっていう箇所がいくつかあった。若者という中での共感なのか、プロデュース側のフランス的な演出に日本のそれと重なるところがあったための共感だったのかは分からない。iBookを持ち歩いていたり、あと、ちっこいケータイやケータイ番号が女性との連絡のキーになっていたりってところも、日常に近い感じがする。

話がかなり断片的な印象を受ける。作り方か意図かは分からないが、結局何が言いたいのか、見えてこない。2時間ものの白線ながし大人篇といった感じ。Audrey Tautouがかわいい。けど、あまり出てこない。

これは、問題作。いろんな意味で。こんな重い作品を見たことない。

全体に童話的。ブラック。ソロンズ節炸裂。笑えないほど重い。ストーリーは全体が各章に別れていて、主人公アビバやボーイフレンド等の俳優がどんどん変わる。アビバは様々な少女が演じることになる。この少女達が、皆かわいくなく、思春期の不安定さを露骨に抱え、内面に傷を負っており、アビバという少女を象徴的かつ暗喩的にさせている。童話という非現実的なディテールを、どこにでもいそうな少女のどこにでもありそうな話という印象にシフトさせたい作者側の意図も感じる。

とにかく、「重い」。その重さに制作者の反骨を感じずにはいられない。例えば、映画というのは、我々が無意識のうちにも、イケメン俳優と美女のラブストーリーやラブアフェアー、円満かつ勧善懲悪なエンドを心の底で狙っているという僅かな期待もあるが(或いは金払ってんだから、良い話見せろよな的期待)、本作はそういったものが悉く排除されている。心が折れるほどに。太った中学生同士のセックス、とてもださいTシャツの早漏中学生、妊娠してしまう中学生、堕胎する中学生、実は人殺しを雇っている養護施設の責任者、堕胎手術を失敗した医者を殺しに・・・すいません、もうお腹いっぱいです。。。アメリカはロリコンに厳しそうなので、役者が変わるのはその辺の配慮とかなんだろうか。あと、冒頭でドーンが死んでいる。ドーンと言えば、welcome to the dollhouse。ドールハウスの話を引きずってはいないが、そのような小技がこの作品を掘り下げたい作者の意図に思えてならない。

物語最後ドーンの兄マークが登場。老いているが、マークである。マークは「人間の本質なんて変わらない」と言う。「本質」これはこの物語でかなり重要なテーマではないか。アビバという主人公の外見はどんどん変わるが、本質は変わらない。

例えば、キリスト教児童養護施設での盲目の少女の話、胎児が捨てられるゴミ捨て場の話、ゴミ捨て場に捨てられた赤ちゃんの人形、堕胎手術。「セックス」と「妊娠」のイメージが一貫して話の中に取り組まれている。それが「母親」と「少女」の間に不安定に横たわっている。

この監督は、やたらブラックなのを作るが、つまりは「人生って最悪だけど、笑えるよな」という逆説的希望を込めているように思う。観てて、「なんだこれ」と思わずツッコミを入れたくなる。