戯れ言使い(いつもの馬鹿戯れ言)

http://www.jmdb.ne.jp/1995/ov053600.htm

MXテレビでやってた。若い頃のデブキャラ、フルキャスト。なんだこれ。ぐだぐだでうける。95年ってこんなだったっけ?ギャグと衣装の滑り具合がすごい。

言葉はパフォーマンスであるから、発話者が真摯な気持ちでいるのなら、愛してるなんて言葉を言う時は相手が絶対疑いを持てないだろう確信時に言うべきであり、おならをする時はその逆だ。

世の中は、もともとカオス。麻薬と煙草とアルコールと妄想とロックとパンクで、とにかくセックスばかりしてしまうのが人間の性であり、要するに人間は動物であるから、もっと生産的に行こうや、近親相姦とかよせや、とルールができて、そういうのを守られるまでの理性ってのを持ち得て、社会で生活するようになりました。

自由と混沌に義務や役割を割り当てていく過程と結果、ルールは複雑多様化していって、集団への教育や国家による教育も生まれて、「社会は、順序立てて構築されるべきである」というような神話っつーか、思い込みが世相にできあがってしまった。なんだか息苦しいわけで。

成功すべきという、成功しなければならないという共通理解っつーか、思い込みに満たされつつある僕らはもともと混沌である世界を生産的に順序立てて、つまりは、猿山のボス猿宜しく、頭の良い人、すごい仕事ができる人は上にどうぞ行って頂きたい、そして頭が悪くミスをしでかす方達を、成功と欲望を分かり易く数値に還元しているお金ってやつでどうぞ操ってくださいと言う総司令の中にいる気がする。上下。あてはめる必要。

ここで我々に突きつけられる答えは、生産的に順序だてる行為を是と飲むか、飲まないか、忘れるか。つまりは、「カオスをより論理立てていこうぜー。それが幸せなんだよ、やっぱりこれからも」とボス猿に従順に毛づくろいできるか、「カオスをカオスとして受け入れるぜー。無理すんなよ」と対抗勢力or猿山から離れるか、「どーでもいいっす」or「おもしろけりゃいいじゃーん」とかませるかだったりするわけで。

ところで、世界にはコピーがあふれている。標語があふれている。そんな手前、「ワンダフルワールド!」、「いい感じ」と叫ぶ、呟くそれら全てブランド戦略。つまり、言葉は「振る舞い」なわけだ。言葉が何も表象していない中、つまりは、ここにこうして書いている戯れ言も、結局は誰かを戦略的にそう思いたらしめる広告であり、戯れ言である可能性があるばかりでなく、理由と言われている「言葉」は時としてパフォーマンスということに、嘘がひしめくこの社会で気付かされる。でも、気付いた時には全然遅かったりして。リアルワードへの渇望。俺以外の誰かがぐだぐだ説明する言葉に、何かリアリティを感じられれば、それは宝物なんですけど、それ以外は解説であり、コピーであり、つまりは飾りであって、ファッションであって、内部に取り込むべき言葉ではなくて、いずれ枯れるんでしょう。

無から順序立てて行く、価値をつけていくことは、我々と我々の子孫にその価値観を繋いでいくという意味もあるんだろう。でも、俺は価値なんてそいつで決めれば良いんだと、順序にこだわる必要なんてないんだと、すげーとか最高とかそういう単発的な言葉を出せる感動を柵で囲まれた中で連発できるかのリアリティを見いだしたくもあり。

どう言葉を魅せるかってのは考えられすぎてて、勿論、音も、映像も。言葉にならない、音にも映像にもなり得ない、つまりは、そういう意味だ、意味、すげー意味だ。誰も見た事ない、誰も触れた事のない意味だ、意味。そういうすごい価値。それを探す。っつーか、ねぇし!諦めるのは早い。ドーベルマン+デカ=ドーベルマンデカなんだろうけど、それで終わりっつーかなんつーか。その意味でGoogleは言葉の意味に頼らなかった感があって、素敵です。教訓。何事も受け身はダメだ。探すことだ。無理なら作る。理解前の発話と探求。

クラスでのアイデンティティと思春期のアイデンティティを既存の何かで保つ必要があるから、とりあえず、カウントダウンTVを見る中学生みたいな、「あ、このバンドでいいや」翌日、「○○好きっす」といった消去法的アイデンティティ確保のhow toはもうこりごりなんですよーーーーっ!顔がイイ男はこの世からいなくなっちまえばいい訳ですよーーーーっ!

http://www.jmdb.ne.jp/1995/ov053600.htm

MXテレビでやってた。若い頃のデブキャラ、フルキャスト。なんだこれ。ぐだぐだでうける。95年ってこんなだったっけ?ギャグと衣装の滑り具合がすごい。

言葉はパフォーマンスであるから、発話者が真摯な気持ちでいるのなら、愛してるなんて言葉を言う時は相手が絶対疑いを持てないだろう確信時に言うべきであり、おならをする時はその逆だ。

世の中は、もともとカオス。麻薬と煙草とアルコールと妄想とロックとパンクで、とにかくセックスばかりしてしまうのが人間の性であり、要するに人間は動物であるから、もっと生産的に行こうや、近親相姦とかよせや、とルールができて、そういうのを守られるまでの理性ってのを持ち得て、社会で生活するようになりました。

自由と混沌に義務や役割を割り当てていく過程と結果、ルールは複雑多様化していって、集団への教育や国家による教育も生まれて、「社会は、順序立てて構築されるべきである」というような神話っつーか、思い込みが世相にできあがってしまった。なんだか息苦しいわけで。

成功すべきという、成功しなければならないという共通理解っつーか、思い込みに満たされつつある僕らはもともと混沌である世界を生産的に順序立てて、つまりは、猿山のボス猿宜しく、頭の良い人、すごい仕事ができる人は上にどうぞ行って頂きたい、そして頭が悪くミスをしでかす方達を、成功と欲望を分かり易く数値に還元しているお金ってやつでどうぞ操ってくださいと言う総司令の中にいる気がする。上下。あてはめる必要。

ここで我々に突きつけられる答えは、生産的に順序だてる行為を是と飲むか、飲まないか、忘れるか。つまりは、「カオスをより論理立てていこうぜー。それが幸せなんだよ、やっぱりこれからも」とボス猿に従順に毛づくろいできるか、「カオスをカオスとして受け入れるぜー。無理すんなよ」と対抗勢力or猿山から離れるか、「どーでもいいっす」or「おもしろけりゃいいじゃーん」とかませるかだったりするわけで。

ところで、世界にはコピーがあふれている。標語があふれている。そんな手前、「ワンダフルワールド!」、「いい感じ」と叫ぶ、呟くそれら全てブランド戦略。つまり、言葉は「振る舞い」なわけだ。言葉が何も表象していない中、つまりは、ここにこうして書いている戯れ言も、結局は誰かを戦略的にそう思いたらしめる広告であり、戯れ言である可能性があるばかりでなく、理由と言われている「言葉」は時としてパフォーマンスということに、嘘がひしめくこの社会で気付かされる。でも、気付いた時には全然遅かったりして。リアルワードへの渇望。俺以外の誰かがぐだぐだ説明する言葉に、何かリアリティを感じられれば、それは宝物なんですけど、それ以外は解説であり、コピーであり、つまりは飾りであって、ファッションであって、内部に取り込むべき言葉ではなくて、いずれ枯れるんでしょう。

無から順序立てて行く、価値をつけていくことは、我々と我々の子孫にその価値観を繋いでいくという意味もあるんだろう。でも、俺は価値なんてそいつで決めれば良いんだと、順序にこだわる必要なんてないんだと、すげーとか最高とかそういう単発的な言葉を出せる感動を柵で囲まれた中で連発できるかのリアリティを見いだしたくもあり。

どう言葉を魅せるかってのは考えられすぎてて、勿論、音も、映像も。言葉にならない、音にも映像にもなり得ない、つまりは、そういう意味だ、意味、すげー意味だ。誰も見た事ない、誰も触れた事のない意味だ、意味。そういうすごい価値。それを探す。っつーか、ねぇし!諦めるのは早い。ドーベルマン+デカ=ドーベルマンデカなんだろうけど、それで終わりっつーかなんつーか。その意味でGoogleは言葉の意味に頼らなかった感があって、素敵です。教訓。何事も受け身はダメだ。探すことだ。無理なら作る。理解前の発話と探求。

クラスでのアイデンティティと思春期のアイデンティティを既存の何かで保つ必要があるから、とりあえず、カウントダウンTVを見る中学生みたいな、「あ、このバンドでいいや」翌日、「○○好きっす」といった消去法的アイデンティティ確保のhow toはもうこりごりなんですよーーーーっ!顔がイイ男はこの世からいなくなっちまえばいい訳ですよーーーーっ!