日々の偽善を優しさと読み違えても

金曜
中目で友人と飯、酒。名前すら覚えていないが、たまり場と化している酒場が駅前にあって、そこでマンゴレンミルクなるカクテルを注文するのがパターン化。今回も。この店に行くと必ず、必ず同じ席に通される。その席は部屋の隅っこで、野郎が管を巻くには丁度よく、ぐでんぐでんになりつつ、終電で帰るのがパターン化。

旅行好きな友人なので、旅行話をいろいろ聞かせてもらえて楽しいのだが、同時に彼は、読書家でもあるので、小説、映画、演劇等文化系話をぐわーっとすることがあるのだけど、総じて、最近すっと、「感動しなくなってきてんのかなー」というボヤキがでてしまうことがある。小さな恐怖は、前触れもなく、予兆もなく、すっと亡霊のように現れる。

例えば、です。文芸賞とった中学生、三並夏の「平成マシンガンズ」を読むかどうか。俺はおそらく読まないと思う。いろいろ簡略化しながら話しますが、小説って向き合うことでしょう。そして、その世界にゆだねることでしょう。少なくとも僕はそうだ。だから、パワーが要る。雑誌みたいに参考にするっていう感じじゃないでしょう。小説の場合。

小説を読むことは、作者の世界に入ることなんだと思うんですよ。その世界観、その世界の視座に。僕は今年24であと半年くらいで四捨五入すれば30という年なんですけど、その僕が10歳下の中学生の世界観で「はまった」と、それはびっくりする一方で、恐怖だったりもして、作品に対する冒涜かも知れないけども、読む前から読むことに対する偏見と恐怖があったりする。精神構造が、中学生であることへの恐怖?ひどい話ですけど。

読んでないので、本当に何もいえませんが、選考委員がどういう基準で選んでいるか分からないですけど、「中学生でこれだけ書ける」という意味での評価だったり、それが文学賞低年齢化の原因だとするなら、残念です。アイドル化ならば。

いうなれば、俺はリアリティが欲しいんだと思う。消費されないリアリティが。単純じゃなくて、社会の複雑が隠れているのが欲しい。でも、そういうのは少ないのかも知れない。

綿矢りさのもそうだったけど、やはり、10代から20代前半で描かれるメインな社会って学校でしょう。ジャンプを見てもマガジンを見ても、社会は学校だったりする。でも、今、俺は学校関係ないし、多くの人がそうであるように、既に学校は郷愁の中にしか存在しないんだよな。だからこその青春映画だったり、さわやかさが大衆の心に美しく喚起され、自分との何かを重ねたりしているのだろうけど、僕にとってそれは遠いんですよね。自分が男子校だったっつーのもあるし。「今」のリアリティが欲しい。

しかし、そんな風に物語のリアリティの豊潤さを求む一方で、俺はもう本が読めないのではないかという危惧すらある。ポストモダン時代の作家は、物語を紡ぐことに苦労したという一文が「世界×現在×文学―作家ファイル」にあったと思うけど、思うに、現代人は普遍的な物語から遠い気がする。あまりに皆ばらばらすぎて、一つの壮大な物語を信じられないんだろう。一方で物語に関心のある人と、そうでない人がいて。立場によって、意味も見方も変わるし。

電車男をどう理解するかは、分からないけど、例えば、公共広告機構の「誰かが電車で女の子が酔っ払いに絡まれていたら、助けようという社会運動の広告」をネット上でやったという陰謀的手法だったとしても、別に構わない。結果として、僕の中にリアリティが残れば、それはリアリティなんだと思うわがまま具合。誰かのルールは要らない。真実を握り締めたい。

普遍的な物語が全てではないし、物語はいっぱいあって信じられているんだけど、本と向き合うか、現実と向き合うかっていったら、俺は現実と向きあうことを選択し続けている気がする。最近は。

感動の干上がり。悲しいけど、その恐怖と危惧が強くなっていくのは俺だけだろうか。中学生の頃はもっともっともっとすごかったと思う。それこそ、風が吹くだけで感動できるような。表現するのも困るくらいに。感動ってどこにあるんでしょう?俺の中?感動を探す旅。それは内なる世界への旅でもあって。失望の街で感動を売る男に出会い、感動を盗んで、感動乞食に高値で売りつける、そんな感動はごめんだ。

全てに判断基準が厳しくなっては、どんどん孤独になるだけだ!人からも価値からも失望されて、空っぽになったところで、まるで感動がすごいことのように、感動バイヤーは俺を感動ビジネスに埋めようとしている。畜生。

等と考え、語ったというのは嘘で、只管バカ話をした。すまん。

土曜
HMVThe longcutのシングルを予約。1stが絶版って、だー、マジかー。tribe called quest、Lux Courageous、The Bravery等を買う。The bravery、「よすぎる」(カッコよすぎる)。

http://www.luxcourageous.com/
ギターが心地よい。いいねー。

日曜
すごく動いた気がする。

月曜
焼肉と酒。満腹だった気がする。

火曜
結局、ディヴィット・マメットの『エドモンド』見れず。悔しい。他者の憂鬱の暴走が時として、観客の憂鬱の解放でもあったりするわけで、それとは別で、優しさが人を傷つけることもあったりもするわけで、世の中よく分かりません。

金曜
中目で友人と飯、酒。名前すら覚えていないが、たまり場と化している酒場が駅前にあって、そこでマンゴレンミルクなるカクテルを注文するのがパターン化。今回も。この店に行くと必ず、必ず同じ席に通される。その席は部屋の隅っこで、野郎が管を巻くには丁度よく、ぐでんぐでんになりつつ、終電で帰るのがパターン化。

旅行好きな友人なので、旅行話をいろいろ聞かせてもらえて楽しいのだが、同時に彼は、読書家でもあるので、小説、映画、演劇等文化系話をぐわーっとすることがあるのだけど、総じて、最近すっと、「感動しなくなってきてんのかなー」というボヤキがでてしまうことがある。小さな恐怖は、前触れもなく、予兆もなく、すっと亡霊のように現れる。

例えば、です。文芸賞とった中学生、三並夏の「平成マシンガンズ」を読むかどうか。俺はおそらく読まないと思う。いろいろ簡略化しながら話しますが、小説って向き合うことでしょう。そして、その世界にゆだねることでしょう。少なくとも僕はそうだ。だから、パワーが要る。雑誌みたいに参考にするっていう感じじゃないでしょう。小説の場合。

小説を読むことは、作者の世界に入ることなんだと思うんですよ。その世界観、その世界の視座に。僕は今年24であと半年くらいで四捨五入すれば30という年なんですけど、その僕が10歳下の中学生の世界観で「はまった」と、それはびっくりする一方で、恐怖だったりもして、作品に対する冒涜かも知れないけども、読む前から読むことに対する偏見と恐怖があったりする。精神構造が、中学生であることへの恐怖?ひどい話ですけど。

読んでないので、本当に何もいえませんが、選考委員がどういう基準で選んでいるか分からないですけど、「中学生でこれだけ書ける」という意味での評価だったり、それが文学賞低年齢化の原因だとするなら、残念です。アイドル化ならば。

いうなれば、俺はリアリティが欲しいんだと思う。消費されないリアリティが。単純じゃなくて、社会の複雑が隠れているのが欲しい。でも、そういうのは少ないのかも知れない。

綿矢りさのもそうだったけど、やはり、10代から20代前半で描かれるメインな社会って学校でしょう。ジャンプを見てもマガジンを見ても、社会は学校だったりする。でも、今、俺は学校関係ないし、多くの人がそうであるように、既に学校は郷愁の中にしか存在しないんだよな。だからこその青春映画だったり、さわやかさが大衆の心に美しく喚起され、自分との何かを重ねたりしているのだろうけど、僕にとってそれは遠いんですよね。自分が男子校だったっつーのもあるし。「今」のリアリティが欲しい。

しかし、そんな風に物語のリアリティの豊潤さを求む一方で、俺はもう本が読めないのではないかという危惧すらある。ポストモダン時代の作家は、物語を紡ぐことに苦労したという一文が「世界×現在×文学―作家ファイル」にあったと思うけど、思うに、現代人は普遍的な物語から遠い気がする。あまりに皆ばらばらすぎて、一つの壮大な物語を信じられないんだろう。一方で物語に関心のある人と、そうでない人がいて。立場によって、意味も見方も変わるし。

電車男をどう理解するかは、分からないけど、例えば、公共広告機構の「誰かが電車で女の子が酔っ払いに絡まれていたら、助けようという社会運動の広告」をネット上でやったという陰謀的手法だったとしても、別に構わない。結果として、僕の中にリアリティが残れば、それはリアリティなんだと思うわがまま具合。誰かのルールは要らない。真実を握り締めたい。

普遍的な物語が全てではないし、物語はいっぱいあって信じられているんだけど、本と向き合うか、現実と向き合うかっていったら、俺は現実と向きあうことを選択し続けている気がする。最近は。

感動の干上がり。悲しいけど、その恐怖と危惧が強くなっていくのは俺だけだろうか。中学生の頃はもっともっともっとすごかったと思う。それこそ、風が吹くだけで感動できるような。表現するのも困るくらいに。感動ってどこにあるんでしょう?俺の中?感動を探す旅。それは内なる世界への旅でもあって。失望の街で感動を売る男に出会い、感動を盗んで、感動乞食に高値で売りつける、そんな感動はごめんだ。

全てに判断基準が厳しくなっては、どんどん孤独になるだけだ!人からも価値からも失望されて、空っぽになったところで、まるで感動がすごいことのように、感動バイヤーは俺を感動ビジネスに埋めようとしている。畜生。

等と考え、語ったというのは嘘で、只管バカ話をした。すまん。

土曜
HMVThe longcutのシングルを予約。1stが絶版って、だー、マジかー。tribe called quest、Lux Courageous、The Bravery等を買う。The bravery、「よすぎる」(カッコよすぎる)。

http://www.luxcourageous.com/
ギターが心地よい。いいねー。

日曜
すごく動いた気がする。

月曜
焼肉と酒。満腹だった気がする。

火曜
結局、ディヴィット・マメットの『エドモンド』見れず。悔しい。他者の憂鬱の暴走が時として、観客の憂鬱の解放でもあったりするわけで、それとは別で、優しさが人を傷つけることもあったりもするわけで、世の中よく分かりません。