飲酒

また飲んでます。ビール3杯、サワー4杯なのでそこまででもないかも。もっと、モンモンとしててもいい、と最近は思う。はじけすぎである。

某国会議員の自殺。原因として、政党、政治、主義、主張が悪いっていう言い分がひょっこり流布されてたようですが、それを聞いた時点で政党政治終わったかな、と思った。「自らの心情と政党政治の狭間で悩み苦しんだ」とか言われる心境ってどうよ?政治家としてそれはどうなの?誠実だと言えるのだろうか?それは、ものすごい侮辱なんじゃないか、と俺は思うよ。悪く言えば、主義主張も通せない人が政治家やってたってことですし、寧ろそういう部分があったとするなら、カミングアウトしてそういった悪習を直そうという意気込みがあってこその誠実じゃないんですか。厳しいことを言うようで悪いけども。

亀井議員の「起こってはいけないことが起きてしまった」ってのも、茶番に見えるなぁ。それ自体は、何も虚飾のない言葉だったのかも知れないけど、やはり劇場化された政治の先、お涙頂戴劇に陥ってしまった腐り方をあの発言から感じてしまう。何だよ。「起こってはいけないことが起こってしまった」って。どこか他人事みたいなんだよな。

最近、多いわな。社会的制裁という衣をかぶった嫉妬が。亀井静香も結局、小泉への嫉妬だと思う。アナウンサーがジャニーズと酒飲んだ話も社会的制裁という名の大衆の嫉妬だと思う。嫉妬が渦舞いとる。

ところで、最近、俺自身の文学ってどうよ?って思う瞬間が多々ある。

最近、ものすごく思う。昔に比べ、本を読まなくなってしまった僕の一番の原因は「信じる力」が希薄してしまったところにあると思う。もう、本が読めない。もう、何も書けない。信じられないんです。楽しく本を読めない。

例えば、ファンタジー。疑っている。例えば、小説。勿論、疑っている。ノンフィクションにエッセイ。それでも疑っている。バカか。俺よ。物語が好きだった自分が、物語に距離を置いてしまう。信じられないという理由だけで。

映像はまだ信じられている。けれど、映像も疑っている僕がいる。こんな風に撮ったんだろ、これ、という。バカだ。

そのような、「信じられない」いきさつには俺自身がネットになれすぎていて、テクストそのもののリアルさを信じなくなってきているという理由もある。ここ最近の俺は文章全体を嘘っぱちであると捉える傾向が増した。ネットで氾濫する嘘のテクストや新しい社交辞令や定型文の刷り込みによって、文章という表現方法自体を信じなくなってきている。僕が受け取るその言葉の意味は、全然正確じゃないんです。

良質のノンフィクションやノンフィクションの映画を見れば良い、と思う。信じられるかどうかは、別として、感動できる本に出会えれば良いと思う。
だからこそ、良質のノンフィクションを求めるのだけど、その良質のノンフィクションって一体何だろう?そこでまた、倒錯するわけです。

何が言いたいかというと、信じる力の奥深さである。下名のようなものが大げさなことを言うようで申し訳ないが、人間の全ての行動の最初の部分には、「信じる」という力が幾ばくか必要なんだろうと思った。

信じなければ、何もできない。信じなければ、行動をすることができない。信じるとは自らを何某かに委ねるということでもある。現実の政治やら、日常やらに絶望した人間が、フィクションの中の政治を信じる?バカな。

信じることが悉く裏切られる時代で、結局、下名が大人になってどうなったかというと、「信じる」力を失ってしまったのだ。手から零れ落ちた一握の砂よ。

「テレビも信じない。新聞も読まない。ただ前進させるぜ。アレを。」である。アレを。つまり、アレを前進させるだけなのだ。アレを。

また飲んでます。ビール3杯、サワー4杯なのでそこまででもないかも。もっと、モンモンとしててもいい、と最近は思う。はじけすぎである。

某国会議員の自殺。原因として、政党、政治、主義、主張が悪いっていう言い分がひょっこり流布されてたようですが、それを聞いた時点で政党政治終わったかな、と思った。「自らの心情と政党政治の狭間で悩み苦しんだ」とか言われる心境ってどうよ?政治家としてそれはどうなの?誠実だと言えるのだろうか?それは、ものすごい侮辱なんじゃないか、と俺は思うよ。悪く言えば、主義主張も通せない人が政治家やってたってことですし、寧ろそういう部分があったとするなら、カミングアウトしてそういった悪習を直そうという意気込みがあってこその誠実じゃないんですか。厳しいことを言うようで悪いけども。

亀井議員の「起こってはいけないことが起きてしまった」ってのも、茶番に見えるなぁ。それ自体は、何も虚飾のない言葉だったのかも知れないけど、やはり劇場化された政治の先、お涙頂戴劇に陥ってしまった腐り方をあの発言から感じてしまう。何だよ。「起こってはいけないことが起こってしまった」って。どこか他人事みたいなんだよな。

最近、多いわな。社会的制裁という衣をかぶった嫉妬が。亀井静香も結局、小泉への嫉妬だと思う。アナウンサーがジャニーズと酒飲んだ話も社会的制裁という名の大衆の嫉妬だと思う。嫉妬が渦舞いとる。

ところで、最近、俺自身の文学ってどうよ?って思う瞬間が多々ある。

最近、ものすごく思う。昔に比べ、本を読まなくなってしまった僕の一番の原因は「信じる力」が希薄してしまったところにあると思う。もう、本が読めない。もう、何も書けない。信じられないんです。楽しく本を読めない。

例えば、ファンタジー。疑っている。例えば、小説。勿論、疑っている。ノンフィクションにエッセイ。それでも疑っている。バカか。俺よ。物語が好きだった自分が、物語に距離を置いてしまう。信じられないという理由だけで。

映像はまだ信じられている。けれど、映像も疑っている僕がいる。こんな風に撮ったんだろ、これ、という。バカだ。

そのような、「信じられない」いきさつには俺自身がネットになれすぎていて、テクストそのもののリアルさを信じなくなってきているという理由もある。ここ最近の俺は文章全体を嘘っぱちであると捉える傾向が増した。ネットで氾濫する嘘のテクストや新しい社交辞令や定型文の刷り込みによって、文章という表現方法自体を信じなくなってきている。僕が受け取るその言葉の意味は、全然正確じゃないんです。

良質のノンフィクションやノンフィクションの映画を見れば良い、と思う。信じられるかどうかは、別として、感動できる本に出会えれば良いと思う。
だからこそ、良質のノンフィクションを求めるのだけど、その良質のノンフィクションって一体何だろう?そこでまた、倒錯するわけです。

何が言いたいかというと、信じる力の奥深さである。下名のようなものが大げさなことを言うようで申し訳ないが、人間の全ての行動の最初の部分には、「信じる」という力が幾ばくか必要なんだろうと思った。

信じなければ、何もできない。信じなければ、行動をすることができない。信じるとは自らを何某かに委ねるということでもある。現実の政治やら、日常やらに絶望した人間が、フィクションの中の政治を信じる?バカな。

信じることが悉く裏切られる時代で、結局、下名が大人になってどうなったかというと、「信じる」力を失ってしまったのだ。手から零れ落ちた一握の砂よ。

「テレビも信じない。新聞も読まない。ただ前進させるぜ。アレを。」である。アレを。つまり、アレを前進させるだけなのだ。アレを。