痛い

ノミニケーション

人、嫌な人と付き合う浪費具合とM具合。世界の6、7割は適当、怠惰、エロで満たされているとすれば、そんな中で暮らす人間なんぞが況や論理的にスマートに生きられるわけもなく、多くの人間が上手く生きられず、不条理極まりない運命を被らざるを得ない。もっと素朴に呟けば、いつも好きな出来事でいられるという偶然はそうそうあるものではない。

誤解も偏見も恐れず言うならば、誰かしら何かしら、情熱を持てる人間はたいてい、憎むべき出来事や相手を持っており、それらから積極的に逃れようとするのは偽善者であり、卑怯者であり、何も見えていない人か、不感症だとも思う。

そのような卑怯を徹底的に通せるのが、学生でもあったが、社会人になったからには血反吐吐かざるを得ないほどのハプニング、人物と直面することになる。

愚生のような貧しい教育を受けた貧弱な思想の持ち主は、そのようなハプニングやそのハプニングの中枢を担う人物に出会えば出会うほど、その環境より性根に目を奪われ、出来事よりもその原因に目がいく。人間は環境で構築されうるものであるという思考が働いているからだ。

本当にヤヴァイハプニングに「良きにはからえ」とも、「ふーん」とも、距離を置く事ができず、自らの半生で構築されたかも知れない思い込みを、そのような出来事が連続すればするほど、見直すことを促される。性善説なんかも。

「人は環境じゃなく性根であり、性悪説かもね」と、痛みの中で価値観を変えていけば、変えさせられていけば、突如、出来事を全て相対で捉えようとする悪しき先入観が内側から噴出してきて、「俺は○○よりマシなのか」といったネガティブな自己正当化が始まるような気がする。マイフェイバリットでもある荒井由実から言わせれば、「全てのものは、メッセージ〜」なわけですよ。そこを大事にしたいのにも関わらず、ひょっこり出てくる悪しき見識。多義的な意味を受け取ることは大事だ。

そもそも、大丈夫でもまともでも正義でも何でもない、廊下に置かれた濡れたパンツみたいな脈絡も理由もなくそこに存在しているだけの存在である無意味な愚生が、悩んだふりをして、高尚な人物のように見せかけるなど、絶望的なwaste具合。

上記のような道筋を自覚して最後に望む事は、全てめちゃくちゃになってしまえ、絶対元に戻らなくて良いからというワイプアウト希求であり、「ぶっこわれたっていいじゃん、いっそ」という本気の投げやり。そういった破壊衝動こそが最もリアルな自らに対する福音だったりもする。犬も食わないだろう無意味な自己解決。その自覚もまた、いっそうむかつきを募らせるわけで。

ノミニケーション

人、嫌な人と付き合う浪費具合とM具合。世界の6、7割は適当、怠惰、エロで満たされているとすれば、そんな中で暮らす人間なんぞが況や論理的にスマートに生きられるわけもなく、多くの人間が上手く生きられず、不条理極まりない運命を被らざるを得ない。もっと素朴に呟けば、いつも好きな出来事でいられるという偶然はそうそうあるものではない。

誤解も偏見も恐れず言うならば、誰かしら何かしら、情熱を持てる人間はたいてい、憎むべき出来事や相手を持っており、それらから積極的に逃れようとするのは偽善者であり、卑怯者であり、何も見えていない人か、不感症だとも思う。

そのような卑怯を徹底的に通せるのが、学生でもあったが、社会人になったからには血反吐吐かざるを得ないほどのハプニング、人物と直面することになる。

愚生のような貧しい教育を受けた貧弱な思想の持ち主は、そのようなハプニングやそのハプニングの中枢を担う人物に出会えば出会うほど、その環境より性根に目を奪われ、出来事よりもその原因に目がいく。人間は環境で構築されうるものであるという思考が働いているからだ。

本当にヤヴァイハプニングに「良きにはからえ」とも、「ふーん」とも、距離を置く事ができず、自らの半生で構築されたかも知れない思い込みを、そのような出来事が連続すればするほど、見直すことを促される。性善説なんかも。

「人は環境じゃなく性根であり、性悪説かもね」と、痛みの中で価値観を変えていけば、変えさせられていけば、突如、出来事を全て相対で捉えようとする悪しき先入観が内側から噴出してきて、「俺は○○よりマシなのか」といったネガティブな自己正当化が始まるような気がする。マイフェイバリットでもある荒井由実から言わせれば、「全てのものは、メッセージ〜」なわけですよ。そこを大事にしたいのにも関わらず、ひょっこり出てくる悪しき見識。多義的な意味を受け取ることは大事だ。

そもそも、大丈夫でもまともでも正義でも何でもない、廊下に置かれた濡れたパンツみたいな脈絡も理由もなくそこに存在しているだけの存在である無意味な愚生が、悩んだふりをして、高尚な人物のように見せかけるなど、絶望的なwaste具合。

上記のような道筋を自覚して最後に望む事は、全てめちゃくちゃになってしまえ、絶対元に戻らなくて良いからというワイプアウト希求であり、「ぶっこわれたっていいじゃん、いっそ」という本気の投げやり。そういった破壊衝動こそが最もリアルな自らに対する福音だったりもする。犬も食わないだろう無意味な自己解決。その自覚もまた、いっそうむかつきを募らせるわけで。